『獅子吼』(浅田次郎)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/10 『獅子吼』(浅田次郎), 作家別(あ行), 書評(さ行), 浅田次郎

『獅子吼』浅田 次郎 文春文庫 2018年12月10日第一刷

けっして瞋(いか)るな。瞋れば命を失う - 父の訓えを守り、檻の中で運命を受け入れて暮らす彼が、太平洋戦争下の過酷に苦しむ人間たちを前に掟を破る時 - それぞれの哀切と尊厳が胸に迫る表題作ほか、昭和四十年の日帰りスキー旅行を描く 「帰り道」、学徒将校が満州で奇妙な軍人に出会う 「流離人(さすりびと)」 など華と涙の王道六篇。(文春文庫)

おそらく、あなたは何度も涙することでしょう。その哀切に。追い詰められてなお貫こうとする命の尊厳に。人間だけではありません。彼もまた 「戦争」 を戦っています。

獅子吼

私は洞の中で身を起こした。真珠のようにつらなる滴の向こう側に目を凝らせば、遙かな見晴台の高みに、行き昏れたみなしごのように肩を寄せ合う二人が見えた。
草野君はさほど変わらぬが、鹿内君はずいぶん大人になった。

これは少しも理不尽な話ではない。もっとも、そう思うのは私だけだろうが。愛する人間の手にかかるのは本望だ。

「どうだ、少しは落ちついたろう」
「はい。ありがとうございました。あの、鹿内兵長殿 - 」
「なじょした。はっきり言え」

もう殴りそうもない。鹿内君の声は穏やかだった。
「自分は、身のほど知らずの貧乏人でありあんすか。背伸びして農学校さ行ったがら、こんたら目に遭うのでありあんすか」

鹿内君は黙りこんでしまった。答えなくていい。今は君らしく、寡黙でありたまえ。あのころから君は、人間とはあまり口をきかず、けだものとばかり話していた。だから私は、君の苦しみをすべて知っている。

裕福な家の子らにまじって、君たちが学問を志したのは、けっして背伸びなどではない。どうかこの結果を、そんなふうに考えないでほしい。努力する者にこそ試練は与えられるのだ。(P43.44)

※草野二等兵が持ち出したのは、食べ尽くされた後の “残飯” でした。その大方は豚の骨と鶏の頭で、どのみち捨てられる運命にあります。しかし軍隊では、それは許されない行為でした。彼は罰として、動物園にいる動物を射殺しろと命じられます。

彼は18歳で徴兵される前、農学校におり、使役として西山の動物園にいる動物たちの世話をしていました。彼は、その動物たちを殺せと命令されたのです。草野二等兵の任務を見届けるため、彼に付き添ったのが鹿内兵長でした。鹿内兵長もまた、農学校を出ています。

「さあて、待っておっても仕方ねなっす。呼んでみるべ」
二人は同時に私の名を呼んだ。
「ボース! 」

私は身を起こして洞を出た。この門出を寿ぐように雨は已み、山背の雲は流れて青空が顕れた。
「ボース! 」
草野君は気付かない。どうして鹿内君が私の名前を知っているのか。たぶん彼には、ほかのことを考える余裕がないのだろう。

「目標、正面の的。距離、三百 - おい、草野。空に向けて撃っとけ。銃が汚れてねえと怪しまれるぞ」
草野君は仰角に銃を撃ち、反動で尻餅をついた。

私は水溜りを歩み、巌の上に立った。
どうした、鹿内君。何を震えている。いったい何にそうも怯え、何を悲しんでいるのだ。これは戦争ではないか。恨み憎しみのかけらもない相手に、「敵」 という名を付けて殺す戦争ではないか。そのさなかにある君が、何をためらう。

私は勇気を揮わねばならない。今こそ、愛する人間たちのために、王者しか持ちえぬ真の勇気を揮わねば。妻にも子らにも分かち与えられなかった愛情のすべてをこめて、吼えねばならぬ。(P44.45)

掟に背き、すべての矜持を賭け、遂に獅子は瞋ることを決意します。

収録作品
・獅子吼
・帰り道
・九泉閣へようこそ
・うきよご
・流離人(さすりびと)
・ブルー・ブルー・スカイ

この本を読んでみてください係数 85/100

◆浅田 次郎
1951年東京都中野区生まれ。
中央大学杉並高等学校卒業。

作品 「地下鉄に乗って」「鉄道員」「壬生義士伝」「お腹召しませ」「中原の虹」「帰郷」他多数

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