『にぎやかな湾に背負われた船』(小野正嗣)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/14
『にぎやかな湾に背負われた船』(小野正嗣), 作家別(あ行), 小野正嗣, 書評(な行)
『にぎやかな湾に背負われた船』小野 正嗣 朝日新聞社 2002年7月1日第一刷
「浦」 の駐在だったとき、お父さんは頭を悩ますことばかりだった。
湾の上には誰のものでもない船が浮かんだままだったし、ミツグアザムイが浜にあるという屍体はどこにあるのかわからないままだった。男の子たちは相変わらずトシコ婆(ばあ)の家にロケット花火を打ち込んでいたし、わたしはわたしで中学で社会科を教えていた吉田先生と恋に落ちていた。(冒頭の文章より)
はじめに冒頭の文章を紹介したのには、訳があります。芥川賞を受賞した『九年前の祈り』もそうだったのですが、この人の小説は素直に前へ進みません。時間が前後したり、話の途中に違う話が割り込んできたり、ひとつの話がいくつもの枝葉に分かれて元に戻るまでに相応の時間を要します。正直に言うと、ややこしいし、まごつくことがあります。
その作風を評して - ガルシア・マルケスや中上健次が実現しようとした 「構造主義」 の一端がみられる - などと言われても、マルケスや中上健次を知らない人にとっては、何のことがわかりません。するならするで、解るように説明してほしいものです。
ということで、最初の五行を書きました。この小説のエッセンスがすべて詰め込まれている文章ですし、ここに書かれていることを頭の隅に置きながら読み進めると、本筋を見失うことなく最後まで行く着くことができるはずです。
物語の舞台は、大分県の県南に位置する小さな湾に面した小さな集落、著者の小野正嗣の生まれ育った故郷です。「浦」 は、濃い血縁関係と人間関係に支配された土地でした。
ある日湾に突如現れた船は、網元の戸高家が所有する 「第十八緑丸」 でした。この船は、以前 「浦」 から沖へ出たまま二度と戻って来なかった船です。「第十八緑丸」 は、いわくつきの船でした。船は湾に浮かんだまま、誰も寄り付こうとはしません。
ミツグアザムイの本当の名前は、浅海井貢。今では集落のほとんどの人間が、そのことを知りません。いつも震えている手は 「振動病」 のせいか、酒のせいかは分かりません。酒まみれのミツグアザムイは集落の厄介者、子供には気味悪がられています。ミツグアザムイは浜で屍体を見たとしきりに主張しますが、他に見た者はなく相手にされません。
トシコ婆は、ミツグアザムイと並んで 「浦」 の有名人です。顔は醜く変形し、頭は禿げて眉毛もなく、何本かの指は溶けたように先端がありません。中学校の男子の誰もがトシコ婆の家にロケット花火を打ち込むことに夢中になっていますが、彼らは花火の本当の理由を知りません。ずっと前から皆がしていることを真似しているのでした。
唯一ミツグアザムイとトシコ婆を庇うのが、川野先生です。万年平教員のまま退職した後も先生と呼ばれる川野だけは、酔っぱらいのミツグアザムイを介抱し、トシコ婆の面倒をみています。選挙に出ては落選する川野の公約は、トシコ婆の家に投げ込まれる花火をやめさせることでした。
「浦」 の実力者の一人は、戸高義一。よし兄と呼ばれる県南の名士です。漁協の組合長であり 「丸義水産」 の社長、養殖ハマチも手がける実業家です。もう一人の実力者・安部八郎は、はち兄と呼ばれ土建会社を経営しています。二人は町議会議員選挙に立候補するライバルですが、義理の兄弟でもありました。八郎の妻・ハツエは、義一の妹でした。
駐在の娘 「わたし」 には、塩月くんという同級生がいます。彼の父・武男、さらに武男の父・清造も物語の重要な人物です。二人して非常に暴力的な男で、武男の妻は暴力に耐え兼ねて家を離れ、幼い日の武男は、清造によって手錠に繋がれた日々を経験しています。
ざっと主要な登場人物を紹介しましたが、彼らの多くは血縁で結ばれ、また過去に少なからぬ関わりを持つ人間ばかりです。二代、三代に亘っての狭い土地での交配の蓄積が、現在の 「浦」 の人間関係を形成しています。
入り組んだ関係を解き明かすヒントを、ひとつだけ記しておきます。集落の人々に気味悪がられ、蔑まれているトシコ婆は、戸高義一と八郎の妻・ハツエの実の祖母でした。義一とハツエの母・キクの歳の離れた妹で、キクの旧姓は浅海井でした。
「第十八緑丸」 がなぜ再び湾に姿を現したのか、その謎を解き明かす過程で、現在の 「浦」 で生きる人々の知られざる過去も明らかになっていきます。話は遠く戦中の満州にまで遡り、小さな海沿いの集落に刻まれた 「大いなる歴史」 を知ることになります。
著者の小野正嗣は、いつも 「土地の力」 を考えながら小説を書いてきたと言っています。それも、彼の生まれ育った故郷、(大変失礼ですが) 辺鄙で寂れるばかりの海沿いの小さな集落にあくまでも拘っています。
彼は、この小説をフランスのとある土地、真ん中にマグノリアの木がはえた古い大きな庭で書いたとあとがきに記しています。その落差にも驚きますが、東大からパリ大学に学んだ俊才が、今もって生まれた土地に拘り続ける姿勢が、私にはえらく好ましく感じられてなりません。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆小野 正嗣
1970年大分県蒲江町(現佐伯市)生まれ。
東京大学教養学部卒業。東京大学大学院総合文化研究科、パリ第8大学卒業。
現在、立教大学文学部文学科文芸思想専修准教授。
作品 「水に埋もれる墓」「森のはずれで」「マイクロバス」「線路と川と母のまじわるところ」「夜よりも大きい」「獅子渡り鼻」「九年前の祈り」など
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