『くちなし』(彩瀬まる)_愛なんて言葉がなければよかったのに。
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『くちなし』(彩瀬まる), 作家別(あ行), 彩瀬まる, 書評(か行)
『くちなし』彩瀬 まる 文春文庫 2020年4月10日第1刷
別れた男の片腕と暮らす女。ある日、男の妻から意外な要求を受ける (「くちなし」)。運命で結ばれた恋人同士に見えるという幻の花 (「花虫」)。鮮烈な才能を持った同級生への想い (「愛のスカート」)。幻想的な愛の世界を繊細かつリアルに描き絶賛を受けた、直木賞候補にして第五回高校生直木賞受賞作。全七篇。(文春文庫)
(彩瀬まるに千早茜の解説 - ああ、やっぱりそうなんや。そういう人選なんや。)
小さい頃、虫を集めているおじさんがいた。子供の目から見ても変わった人だと思った。我が家に訪れるたび、庭を歩きまわり、犬たちからノミやダニを捕っていたので、「ダニのおじさん」 と呼んでいたが、寄生虫が専門の大学の先生だった。掌におさまるくらいの小さなガラス瓶をよく覗かせてもらった。寄生虫の生態は奇妙で、多様性に満ちていて、話を聞いた日は興奮と恐怖で眠れなくなった。私は自分の知らない世界を見せてくれる変わったおじさんが大好きだった。
この短篇集におさめられた七つの物語は、そんな記憶をふとよみがえらせた。ガラス瓶を息で曇らせないよう注意しながら、暗闇に棲息する生物の求愛や営みを、そっと覗き見る。
彼らは色鮮やかで、かすかに光っていて、アツタさん、ユージン、ミネオカ、スグリ、シナモン、オウミさん、コトちゃんといった片仮名の名でお互いを呼び合い、愛の地獄を見せてくれる。そして、人のかたちをしている。
人だ、と思うとぞくっとする。彼らは愛人に片腕をねだったり、くるぶしに花を咲かせたり、大蛇になって愛する男を呑み込んだり、命がけで卵を産んだりと、人の習性にはないことをするから。(千早茜 解説より P216.217)
(七つの物語のうち、高校生たちはどの作品が気に入ったのだろう? 私の一番は 「愛のスカート」。しかし彼らは、嘘でもこれとは言わない気がする)
「愛のスカート」
ミネオカとトキワは、高校の同級生。好きになったのは、ミネオカの方でした。一年近くの片思いの末、高二の夏に告白したところ、彼 (トキワ) は迷いつつ一度は了承したものの、一ヶ月後、さもめんどくさそうに彼女 (ミネオカ) をふったのでした。
そんな二人が大人になってからの話。二人は何気に出合うことになります。そのときトキワはレディースファッションを扱うアパレルブランドのオーナーであり、借りた古民家の大家の女性、マチヤさん (=人妻、子持ち) に、一方的に恋をしています。
そこには、ものすごく普通の奥さんが立っていた。年は三十代半ばほどだろうか。ゆるく癖のついたショートボブの髪、安物だと一目で分かる、のっぺりとした白いTシャツと麻のパンツ。眉毛だけ描かれた化粧気のない丸顔。強いていうなら、黒目がちの目がトイプードルやポメラニアンを連想させてかわいいかもしれない。でも、美人というほどではない。そして彼女の足下にはおそらく二歳には届いていないだろう、ライトグレーの品のいいワンピースにピンクのサンダルをあわせた小さな女の子がちょこんと立っていた。奧さんはこちらに気づき、こんにちは、と明るく笑いかける。
「お仕事の人? 」
はい、とはっきり答えたのは私ではなくトキワだ。こちらを振り返りもせず、奥さんの一挙一動に反応している。「あんた前からああいうタイプが好きだよね。私と付き合ったのだって、ミタキ先生の結婚がショックでヤケになってたからでしょ」
否定して欲しくて、つい余計なことを口走った。今度はトキワの顔が目に見えて歪んだ。めんどくせえ、と深くしわの刻まれた眉間にありありと書いてある。そういえば付き合っていた頃はこんな顔ばかり見た気がする。違うのだ、そんなことない、そのときはお前が好きだったんだよって言って欲しかっただけなのだ。また間違えてしまった。十数年かけて、同じ間違いを繰り返している。トキワは無言で廊下を戻り、私の横をすり抜けて和室へ入った。
間違いでない答えとはなんなのだろう。トキワが足を止めて、私に笑顔を向けるような、正しい答えは。(本文より)
このあと、ミネオカはトキワに対し、忙しそうで化粧気のないマチヤさんのために洋服 - 「できればスカートなんかを作ってあげれば」 と提案します。好きな男が惚れた、自分以外の女のために。それがこの場の、最適解であるように。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆彩瀬 まる
1986年千葉県千葉市生まれ。
上智大学文学部卒業。
作品 「花に眩む」「あのひとは蜘蛛を潰せない」「伊藤米店」「骨を彩る」「神さまのケーキを頬ばるまで」「桜の下で待っている」「やがて海へと届く」他多数
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