『氷平線』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/14
『氷平線』(桜木紫乃), 作家別(さ行), 書評(は行), 桜木紫乃
『氷平線』桜木 紫乃 文春文庫 2012年4月10日第一刷
桜木紫乃の初めての作品集。2002年にオール讀物新人賞を受賞したデビュー作『雪虫』をはじめ、6つの短編が収められています。北海道に生きる人々の哀歓を描いた、いずれも桜木紫乃にしか書けない叙情溢れる物語が堪能できます。
中でも、印象に残るのは本のタイトルにもなっている「氷平線」です。この短編は、大学進学と同時に故郷を捨てた誠一郎と、かつて肌をあわせた友江との再会、そして新たな別れの物語です。
女としての不幸を一身に背負いながらも、健気に生きる友江の姿があまりに切なく哀しみを誘います。その哀しみは冬のオホーツク海を覆う氷原の景色に似て、色が無くどこまでも人を寄せ付けません。友江の笑顔は、明るい場所で見ると泣き顔と同じです。
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舞台は、オホーツク海を望むくぼみにある50世帯ほどの集落。住民のほとんどが漁師とその家族で、自分の船を持って漁をしている者は半数にも満たない貧しい集落です。誠一郎は、何としてもそこから逃れるために大学へ進学しようと思っています。
友江が集落へ来たのは誠一郎が10歳のとき、彼女は70歳を過ぎて仕事もままならない老人とトタンを継ぎ接ぎした小さな家で暮らしています。彼女が学校へ通う様子はありません。3年後に老人が亡くなった後も、友江は一人小さな家で暮らしています。
どうやら体を売って生活しているらしい。そんな噂を誠一郎が聞くのは8年後、友江が23歳、誠一郎が18歳のときです。
誠一郎にとって、友江は初めての女性です。受験が迫る1月半ば、その夜友江に会うまで、彼は性的な香りのする生身の女を知りません。誠一郎は友江の何でもない肌の動きに見入ってしまい、背骨が熱く焼ける感覚が走った途端に下着を汚してしまうのでした。
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3月。誠一郎は東京大学に合格し、その後法学部へ進み、卒業後は財務省へ入ります。数年の後、思わぬ人事により岩見沢税務署の署長として再び北海道の地を踏むことになった誠一郎は、10年ぶりに戻った故郷の居酒屋で、友江と運命的な再会をすることになります。
友江はまだ独り身で、居酒屋の稼ぎの補いに今でも体を売っていると言います。馴染みがいて、体は楽だと笑います。
「ここから出よう」・・行為の最中に自分が言った言葉に半分驚きながら、どこかで納得もしている誠一郎です。愚かなことをしている自覚はあるけれど、誰に何を言われようと、ここに友江を置いて帰るよりはましだと誠一郎は思っています。
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一旦は誠一郎に従って故郷を出る友江ですが、結局彼女は元の暮らしへ戻ってしまいます。もちろんそれは誠一郎の思いが伝わらなかったからではなく、むしろ誠一郎を慕うが故に友江が選んだ哀しい覚悟です。誠一郎は、友江に結婚を申し込んでさえいたのです。
「実家が火事に遭い、両親が亡くなった」その報せを誠一郎が受けたのは、友江が署長宿舎から姿を消して三日目のことでした。
その報せに、誠一郎は明らかに安堵しています。安堵故に、彼は煩うことなく入り江に向かいます。父親が息子の肩書を利用して地元で悪事を働いている、それも聞かされていた誠一郎です。そのことで、母親はひたすら詫びるばかりだったのです。
勝手に家の中に入ってきた誠一郎を見ても、友江がうろたえる様子はありません。誠一郎を見上げて微笑んでいます。家の中にある調度品、安っぽい化粧品が並ぶカラーボックスの上にはストラップに埋もれそうな携帯電話。襖の向こうにある、畳まれた布団・・・。
そのどれもが、誠一郎が捨てた土地で10年の間友江が必死になって生きてきた証です。居酒屋では見えなかったものが、薄暗い部屋に溢れています。
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火をつけたのが友江ではないか、と考える誠一郎の心は複雑です。たとえそうであっても、誠一郎に友江を責める気持ちはありません。嘘でも自分ではないという一言を聞くために、
誠一郎は友江に会いに来ています。
あと少しで終わりという間際ですが、この時点ではまだ誠一郎が知らされていない事実があります。おそらくそれは友江が言わずにおこうと決めていたことで、敢えて誠一郎が知る必要のなかったことかも知れません。
彼が誠実であろうとする分、友江の不幸がまたひとつ増えることになります。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆桜木 紫乃
1965年北海道釧路市生まれ。
高校卒業後裁判所のタイピストとして勤務。
24歳で結婚、専業主婦となり2人目の子供を出産直後に小説を書き始める。
ゴールデンボンバーの熱烈なファンであり、ストリップのファンでもある。
作品 「起終点駅/ターミナル」「凍原」「ラブレス」「ワン・モア」「ホテルローヤル」「硝子の葦」「誰もいない夜に咲く」「無垢の領域」「蛇行する月」「星々たち」「ブルース」など
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