『チヨ子』(宮部みゆき)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/14
『チヨ子』(宮部みゆき), 作家別(ま行), 宮部みゆき, 書評(た行)
『チヨ子』宮部 みゆき 光文社文庫 2011年7月20日初版
五年前に使われたきりであちこち古びてしまったピンクのウサギの着ぐるみ。大学生の「わたし」がアルバイトでそれをかぶって中から外を覗くと、周囲の人はぬいぐるみやロボットに変わり -(「チヨ子」)。表題作を含め、超常現象を題材にした珠玉のホラー&ファンタジー五編を収録。個人短篇集に未収録の傑作ばかりを選りすぐり、いきなり文庫化した贅沢な一冊。(光文社文庫)
「チヨ子」
従業員用の更衣室の壁に、いかにもくたびれましたという感じでもたれかかっているのはピンク色のウサギの着ぐるみ。普通のものよりは小さい感じがする、その着ぐるみを着て風船を配ること - それが〈わたし〉のアルバイトです。
着ぐるみに足を突っ込んだところで、ちょうど母親ぐらいの歳の田中さんに声をかけられました。田中さんは5年前に同じ着ぐるみを着た人で、それがことさらウケたので、今回5年ぶりに〈わたし〉が着ることになったのでした。
5年間ずっと倉庫にしまいっぱなしにされていたと思われる着ぐるみは、色こそ褪せてはいないものの、あちこちに黴が生え、二本の長い耳はくたくたに萎れています。ピンク色の身体に散らばる白い斑点は、漂白剤のついたモップを振り回したせいに違いありません。
田中さんが着ぐるみの頭の部分を持ち上げてくれたので、〈わたし〉はそこにもぐりこむみたいに身をよじり、すっぽりとかぶります。のぞき穴の位置に両目をあて、更衣室の中を眺めてみます。たしかに視界は狭くなるものの、それほど苦には感じません。
「あら、可愛いわぁ」と、田中さんは喜んでいます。動く気配がするし、声は斜め前の方から聞こえます。けど、姿が見えません。田中さんのライトブルーの制服がどこにも見当たりません。
かわりに、ヘンなものが見えます。灰色の、むくむくした毛のかたまりで、すごく大きくて田中さんと同じくらいのサイズです。それが〈わたし〉のすぐそばに立っています。
よく見ると、それはクマの着ぐるみでした。「田中さん?」と訊ねると、灰色のクマの着ぐるみが田中さんの声で返事をしながら、もっさりもっさりと動いて、〈わたし〉の正面にやって来ます。
〈わたし〉はまるで身体に火がついたみたいに悲鳴をあげて、ウサギの頭を脱ぎ捨てました。すると、今度は目の前に田中さんがいます。もう一度ウサギの頭をかぶり直して、かぶるときには目を閉じて・・・・・・・、目を開けると、そこにはやっぱり灰色のクマがいるのでした。
・・・・・・・・・・・・・・
誰もがみんな、着ぐるみを着ています。正確に言うと、ピンクのウサギの着ぐるみをかぶり、のぞき穴から外を見ると、みんなが着ぐるみを着ているように見えるのです。この人はネコ。この人はタヌキ。この人はおサルさん。ちゃんとしっぽもついています。
店長さんはガンダムのロボットで、近くにいる男の人はターボレンジャーとかの戦隊ものの姿。こちらはプラスチック製の玩具です。ウサギの頭を脱ぐと店長と作業着姿の若い男性で、すぽんとウサギの頭をかぶれば、ガンダムとターボレンジャーが復活します。
誰もいない更衣室でウサギの頭をかぶり、〈わたし〉はゆっくりと鏡の前に立ちます。そこにはウサギの着ぐるみがいるのですが、〈わたし〉が着ているのとは違う色をしています。鏡の中にいるのは白ウサギ。右耳が真ん中からペコリと折れています。
その白ウサギには見覚えがありました。・・・・・・・とても懐かしい。子供のころ、大好きだったウサギのぬいぐるみの「チヨ子」です。いつも一緒に寝ていた、遊ぶときにはおぶって出かけ、家族旅行にもつれて行った「チヨ子」がそこにいます。
「久しぶりだね。忘れていてごめんね」-〈わたし〉は自分で自分を抱きしめて、子供のときのようにチヨ子をだっこします。そしてそのとき〈わたし〉は閃いたのです。お店の人たちが着ている着ぐるみは、その人にとってのチヨ子なのだと。そうに違いないと。
ピンクのウサギの着ぐるみを着ると、子供のとき大好きだった玩具が見えるのです。店の中は、ぬいぐるみと玩具の大行進です。〈わたし〉はすっかり慣れてしまい、もうどんなものがそこらを歩いていても平気になります。
と思っていたら・・・・・・・、
一人だけ、普通の子供がいます。どちらかといえばそちらの方が自然なのに、〈わたし〉はとても驚きました。
あの子には小さいときに大切にしていた玩具がなかったのかしら、と思います。中学一年生ぐらいに見える少年は、お客さんの流れに混じって店内に消えて行きました。
しばらくして、その少年が万引きで捕まり、常習犯だというのが分かります。迎えに来たのはお母さん。この人も着ぐるみにも玩具にも見えません。その代り、二人の背中には何かがくっついています。黒くてふわふわしていて、何か気持ちの悪いものです。
着ぐるみの頭を脱ぐと、少年のTシャツの背中にも、お母さんのブラウスの背中にも、何もくっついていません。ウサギの頭をかぶると、今度ははっきりと手の形が見えます。鉤爪の生えた痩せた手で、その指先が少年とお母さんの肩を後ろからつかんでいます。しかも、もぞもぞと動いています。それはまるで、背中を這う蜘蛛のようでした。(続く)
この本を読んでみてください係数 80/100
◆宮部 みゆき
1960年東京都江東区生まれ。
東京都立墨田川高等学校卒業。
作品 「我らが隣人の犯罪」「火車」「蒲生邸事件」「理由」「模倣犯」「名もなき毒」他多数
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