『ある日 失わずにすむもの』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

『ある日 失わずにすむもの』乙川 優三郎 徳間文庫 2021年12月15日初刷

これは明日の私たちの物語。
マーキスはNYのスラム育ち。戦争で、ようやく築いた生活とジャズミュージシャンの夢を奪われる。フィリピンでは17歳のマルコスが銃をとり、人買いの手から娼婦の妹を守る。グアムのホテルマンとして生活を築いてきたベンは、徴兵の知らせが届いたと身重の妻に告げる・・・・・・・。ある日突然、踏みにじられる夢や希望。中断されるかけがえのない日常。世界に漂う戦争の気配・・・・・・・。明日への望みが絶たれる理不尽な現実を描いた12篇。(徳間文庫)

世界のどこかで戦争が起こる。すると突然その戦争に巻き込まれてしまう人々がいる。市井で暮らすあなたや私のことだ。予期せぬ召集に、立ちはだかる暗雲に、人はそのとき何を思うのだろう。自分の人生とどう折り合いをつけ、何を糧に戦地へ向かうのだろうか。

『ある日 失わずにすむもの』 というすこし謎めいたタイトルを持つ本書には、時代も舞台もばらばらな、12の短編が収録されている。英語表記のタイトルは 「twelve antiwar stories」 とあり、つまりは 「反戦」 の意味合いがこめられていることがわかるのだが、関連がなさそうでいて、どこかゆるやかにつながりあうこれらの12の物語の通奏低音となるのは、戦争のきざしが人々に認識される、そのモーメントを描いていることである。

「偉大なホセ」 では、バルセロナから300キロほど内陸の、地中海の明るさや、きらめきからはほど遠い小さな村で、人と交わらず、蓄財だけを楽しみに生きるホセという男が登場する。ワイン農家としてうまく商売を回して得た自負からか、コミュニティの外部を知りたいとも思わず、人付き合いも極力避けてきたこの孤独な男は、しかし何の因果か、スペインが参戦した世界規模の戦争に、自分もやむを得ず直面することとなる。

備蓄していたものを教会に寄付し、だいじな葡萄畑を商売敵に委託することを決めたあと、彼の心に広がるのは虚無だったろうか。村人を誘った最後の食事会には誰ひとりあらわれず、あとは戦地に赴くばかりとなった日の朝、思いもかけず、彼は、自分のために祈りを捧げる人々の姿を目にするのだ。〈うしろに大切なものを引きずり、前に怖ろしいものを見ながら、一体なんのためにと思わずにいられなかった〉。

こうして一編を読み終わるたびに、読者は、音を伴わない息をそっと吐きだしながら余韻にひたることになるだろう。いずれの登場人物たちもごく無名であり、戦闘の場面において、おそらくはリーダーシップを発揮して指揮統一を担ったり、敵を欺く戦術をシミュレーションしたりしそうな人物ではない。主体的にではなく、いわばまきこまれて、戦争に参加するのである。(解説より)

そうだな、俺もやっと酒をやめられる
彼は自嘲しながら、すぐにまた空いた酒瓶を持って窓辺へ立っていった。足下の瓶の列にきちんと並べて外を見ると、空は晴れていたが、石畳が濡れていた。いつのまにか通り雨が街を濡らしたのであった。若い仲間と競い合ってこの坂道を駆け下りることなど、もう彼にはできそうになかった。かわりに軍服を着て行進するのである。

夕暮れの近づく気配とともに、買物籠を提げた年配の婦人がゆっくりと坂道を上ってきた。どこかで雨にあったらしく、髪を濡らしているが気にかけない。子を戦場へ送り出した母親であろうか、なにかしら不幸を背負った人の向こう気を感じて、ベベートはふと父の言葉を思い出した。

おまえはいずれマデイラへ帰ってくる、少しは人生が分かるようになったときか、命を終えるときにな
大学を中退して遊んでいたころであったか、電話の声は怒りより失望に満ちていた。

ベベートはあまりに小さく生きてしまった青春を惜しみながら、婦人の足取りに目をやった。少し不機嫌そうに、しかし小股で歩く姿はしっかりとして、この美しい坂の街にふさわしい人影であった。歩調はこつこつと生きてきた人の強さのようであり、時代を憎む人の地団駄のようでもあった。その貧弱なようすが今日の彼には美しく見えて、うつろな視野から消えてゆくまで目をあてていた。するうち唇が震えて、思ってもみない寂寥が押し寄せてきた。(第九話 「足下に酒瓶」 より)

どうです? こんな結びをあと11篇、味わうことができます。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆乙川 優三郎
1953年東京都生まれ。
千葉県立国府台高校卒業。

作品 「五年の梅」「生きる」「蔓の端々」「脊梁山脈」「ロゴスの市」「太陽は気を失う」「トワイライトシャッフル」他多数

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