『流転の魔女』(楊逸/ヤン・イー)_書評という名の読書感想文

『流転の魔女』楊 逸(ヤン・イー) 文春文庫 2015年12月10日第一刷

居酒屋で時給900円のバイトをしながら法律の勉強に励む中国人女子留学生・林杏(りんきょう)は、ある日通訳を頼まれ、1万5千円もの報酬を手にする。「おせん」と名づけられた5千円札の女性は、財布から財布へあてのない旅へ出て、金銭欲まみれの世界の裏側を覗き見るが・・・。ユニークな構成でお金の魔性を描いた傑作長編。(文春文庫解説より)

小説は二つのPartで構成されています。一つは、林杏という一人の中国人留学生の女性が語る、「お金」にまつわる至極現実的な話。そしてもう一つが「お金」自らが語る、まるであり得るはずのない荒唐無稽な作り話です。

構成もさることながら、最初見たとき「目次」の意味が分かりません。「Q」と「O」とが交互に並び、それぞれを頭にした英字とその日本語訳が添えられています。この「Q」と「O」にどんな含みがあるのか - ようやくそれが分かるのは、物語も終盤間際になってからのことです。

林杏を主人公にした話の方は、何より現実世界のことですから馴染みがあります。彼女の苦学生ぶりがよく分かりますし、ときにゾッとするような話が出てもきたりで面白く読めます。(白状すると)こっちだけでよかったのにと思わぬわけでもありません。

ただそう言ってしまえば、これはもう身も蓋もないわけで・・・

もうひとつの、あり得ない話があってこその『流転の魔女』なのです。魔女とは、5千円札に描かれた「樋口一葉」のことです。林杏は予期せぬ幸運で掴んだ5千円札を前にして、そこに描かれた日本女性をとくと眺めては、彼女を「おせん」と命名します。

涼しげな目/か弱そうな姿/が、芯の強そうな視線/上品でおしとやかな話し方

「5千円」なんてもってのほか。こんな魅力的な女性にはそれ相応の名前があるべきだと林杏は思い、京都の女性が持つ所謂「京女」という美しいイメージに則って「おせん」という名前を思い付きます。- 一葉の顔が嬉しげに緩んだ・・、かどうかは別にして。

ちなみに、そのときもう一枚あった、オジサンが「へ」の字に結んだ口で、あたかも「けしからん」と戒めの言葉を呟いているような・・・、つまりは1万円札に描かれた「福沢諭吉」は「万太郎」と名づけられます。

ともかくも(お金であるが故の定められた運命で)早々に林杏の手元を離れた「おせん」は、次から次へと人また人の手へと渡ってゆきます。しばらくの間は東京に留まるものの、知らぬ間に海を渡って異郷の地へ辿り着きます。

その道中で偽中国元札の毛沢東と出会い、偽ドル札のベンジャミン・フランクリンと出会います。どれもが偽札であるのが如何にも怪しげで、その通りに、「おせん」は欲に塗れた金の亡者たちの間を往来するにつけ、最後はとうとう気を失ってしまいます。

いかに定められたこととはいえ、林杏の手を離れたあとの「おせん」は〈並みの5千円札〉では到底経験できない経験をします。それらの貴重な見聞により、「おせん」は改めて自分が置かれている状況、「お金」が引き起こす幾多の騒動を思い知ることになります。
・・・・・・・・・・
一方、苦学生の林杏はと言えば、中国の両親からの仕送りを何とか軽減したいと思い悩んでいます。それでなくても林杏の生活はカツカツで、100円、10円を節約するような毎日を送っているのですが、そんな折、親元ではとんでもない事件が起こります。

これがなかなかに怖ろしくて、(いかにも中国らしい話なのですが)想像すると思わず身震いするような出来事 - これがまた林杏の両親に降りかかった「お金」に関する災難で、特に良かれと思って事に当たった父親にとっては「悪夢」としか言い様のない出来事です。

もとは王おばさんの火傷が発端です。医療関係に顔の効く林杏の父親は、王おばさんを想って何とか火傷の痕に新しい皮膚を移植してもらおうと方々を駆けずり回ります。しかし、移植にかかる費用は法外で、事は思うようには運びません。

父親は少しでも安い費用で済むように繰り返し交渉し、やっとのことで移植手術が受けられるようになります。ところが、その手術の結果がとんでもないことになってしまいます。手術の費用を値切ったことで王おばさんがどんな目に遭わされたのか・・・

それは書かずにおきましょう。いずれにしても「お金」。「お金」こそがものを言い、「お金」の有り無しでこうも世の中が違えてくる時代とは、本当に人が望んで創ったものなのでしょうか。

「おせん」にしたところで、まさか日本から遠く離れた見知らぬ地で、わが身がやり取りされるなどとは想像もしなかったろうと思います。はたして「おせん」は、このあと意識を取り戻し、生まれ故郷の日本まで無事に帰って来られるのでしょうか・・・

この本を読んでみてください係数 80/100

◆楊 逸(ヤン・イー)
1964年中国黒龍江省ハルピン生まれ。87年、留学生として来日し、お茶の水女子大学文教育学部地理学専攻を卒業。

作品「ワンちゃん」「時が滲む朝」「金魚生活」「すき・やき」「おいしい中国」「陽だまり幻想曲」「獅子頭(シーズトォ)」「あなたへの歌」他

関連記事

『ルパンの消息』(横山秀夫)_書評という名の読書感想文

『ルパンの消息』横山 秀夫 光文社文庫 2009年4月20日初版 15年前、自殺とされた女性教

記事を読む

『満願』(米澤穂信)_書評という名の読書感想文

『満願』米澤 穂信 新潮社 2014年3月20日発行 米澤穂信の『満願』をようやく読みました。な

記事を読む

『ふたりの距離の概算』(米澤穂信)_書評という名の読書感想文

『ふたりの距離の概算』米澤 穂信 角川文庫 2012年6月25日初版 春を迎え高校2年生となっ

記事を読む

『買い物とわたし/お伊勢丹より愛をこめて』(山内マリコ)_書評という名の読書感想文

『買い物とわたし/お伊勢丹より愛をこめて』山内 マリコ 文春文庫 2016年3月10日第一刷

記事を読む

『夏の庭 The Friends 』(湯本香樹実)_書評という名の読書感想文

『夏の庭 The Friends 』湯本 香樹実 新潮文庫 1994年2月25日発行 町外れに暮ら

記事を読む

『さみしくなったら名前を呼んで』(山内マリコ)_書評という名の読書感想文

『さみしくなったら名前を呼んで』山内 マリコ 幻冬舎 2014年9月20日第一刷 いつになれば、私

記事を読む

『老老戦記』(清水義範)_書評という名の読書感想文

『老老戦記』清水 義範 新潮文庫 2017年9月1日発行 グループホームの老人たちがクイズ大会に参

記事を読む

『本屋さんのダイアナ』(柚木麻子)_書評という名の読書感想文

『本屋さんのダイアナ』柚木 麻子 新潮文庫 2016年7月1日発行 私の名は、大穴(ダイアナ)。お

記事を読む

『なぎさ』(山本文緒)_書評という名の読書感想文

『なぎさ』山本 文緒 角川文庫 2016年6月25日初版発行 人生の半ば、迷い抗う

記事を読む

『かわいい結婚』(山内マリコ)_書評という名の読書感想文

『かわいい結婚』山内 マリコ 講談社文庫 2017年6月15日第一刷 結婚して専業主婦となった29

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『絞め殺しの樹』(河﨑秋子)_書評という名の読書感想文

『絞め殺しの樹』 河﨑 秋子 小学館文庫 2024年4月10日 初版

『つまらない住宅地のすべての家』(津村記久子)_書評という名の読書感想文

『つまらない住宅地のすべての家』津村 記久子 双葉文庫 2024年4

『悪逆』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『悪逆』黒川 博行 朝日新聞出版 2023年10月30日 第1刷発行

『エンド・オブ・ライフ』(佐々涼子)_書評という名の読書感想文

『エンド・オブ・ライフ』佐々 涼子 集英社文庫 2024年4月25日

『アトムの心臓 「ディア・ファミリー」 23年間の記録』(清武英利)_書評という名の読書感想文

『アトムの心臓 「ディア・ファミリー」 23年間の記録』清武 英利 

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑