『ウィメンズマラソン』(坂井希久子)_書評という名の読書感想文

『ウィメンズマラソン』坂井 希久子 ハルキ文庫 2016年2月18日第一刷

岸峰子、30歳。シングルマザー。幸田生命女子陸上競技部所属。自己ベストは、2012年の名古屋で出した2時間24分12秒。ロンドン五輪女子マラソン代表選出という栄誉を手に入れた彼女は、人生のピークに立っていた。だが、あるアクシデントによって辞退を余儀なくされてしまい・・・・。そして今、2年以上のブランクを経て、復活へのラストチャンスを掴むため、リオ五輪を目指し闘い続ける。このままじゃ、次に進めないから - 。一人の女性の強く切なく美しい人生を描く、感動の人間ドラマ。(ハルキ文庫解説より)

リオデジャネイロ五輪代表の最終選考会を兼ねた〈名古屋ウィメンズマラソン〉が行われたのは、3月13日の日曜日。つい先日のことです。スタート時間は午前9時10分。晴れて風もなく、絶好のマラソン日和になりました。

優勝したのは、バーレーンのユニスジェプキルイ・キルワという選手。タイムは2時間22分40秒。余裕の1着です。キルワ選手は2連覇、他の選手とは頭一つ抜け出た実力の持ち主で、これはこれで順当としなければなりません。(確かゼッケンNOも1番でした)

続いて第2位が第一生命の田中智美で、最後まで彼女とデッドヒートを繰り広げ、惜しくも1秒差で第3位となったのが天満屋の小原怜。2大会連続五輪出場を狙ったダイハツの木﨑良子は、残念ながら第10位と惨敗に終わります。

この結果をもって田中智美は初の五輪代表入りをほぼ確実なものにし(ちなみに、ゴールタイムは2時間23分19秒)、昨夏の世界選手権の選考会で、横浜国際女子を制したにもかかわらず、代表入りが果たせなかった雪辱を晴らしたことになります。
・・・・・・・・・・
しかし、私が是が非でもテレビの生中継を観たかったのは、そんなことのあれやこれやに気を揉んでいたからではありません。(おそらくは多くの人がそうであったように) 唯一人、野口みずきの走る姿が見たかったからに他なりません。

言わずと知れた、アテネ五輪の金メダリスト。彼女は真に小さな勇者のようで、飛ぶように、跳ねるように走る彼女の姿を忘れることができません。華麗とは言い難い、子どもがまるで鬼ごっこで逃げ回るときのようにして走る彼女の様子が好きでした。

高橋尚子も凄かったけれど、野口みずきは尚凄かった。全盛期の彼女の走りは圧巻で、最初から最後までがトップギアーのままのようで、一度トップに立てば決して後には引きません。前へ前へ進もうとするただひたむきな姿が、見る人すべてを釘付けにしました。

そんな彼女が2年7ヶ月ぶりに出場し、そしておそらくは彼女にとって最後のレースになるであろう大会が〈名古屋ウィメンズマラソン〉だったのです。
・・・・・・・・・・
小説には実在する人物に似た監督や多くの選手が登場します。峰子が所属する幸田生命女子陸上競技部を率いるのは小南達夫監督。彼はオリンピックのメダリストを二人も育て上げ、名伯楽と言われる無精髭の・・・とくれば、およそ誰のことかが分かります。

「ホクランの赤星」「大滝製薬の江藤」「ダイヒツの木関と上里」「天神屋の重松」「糸井山友海上の渋谷」・・・など、それなりの女子マラソンファンなら大概は誰であるかが分かるはずです。

そして、峰子が所属する幸田生命には「野田みどり」がいます。野田はアテネ五輪の金メダリスト。しかし今は度重なる故障に悩み、無期限休養中の身です。公式レースの出場辞退と棄権の連続で世間からは厳しい目で見られ、もう終わったとも囁かれています。

峰子の他に「実在しない」人物が二人いて、一人は辻本皐月。彼女は峰子の一期後輩で、やがて峰子を追い越し一気に日本のホープになります。もう一人が、2年以上ものブランクを経て再び五輪に挑戦しようという峰子に、小南監督が専属でつけた笹塚コーチです。

峰子は、一度は掴み取った五輪行きのキップを思わぬ出来事でフイにしています。しかし、オリンピックに出たいという夢をどうしても諦めることができません。峰子は31歳になっています。年齢的にもこの大会 -〈名古屋ウィメンズマラソン〉が最後の挑戦になります。
・・・・・・・・・・
観たから言えるのですが、まるであらかじめ知っていたような臨場感があります。もちろん岸峰子や辻本皐月がいるはずもないのですが、ひょっとしたら、今走っている誰かを想定して書いてあるんじゃないかと思うくらいの出来栄えです。

まったくの余談ですが、「野田みどり」とは「野口みずき」のことでしょう。おそらくは優勝争いなどできるはずのない、そしてさらにおそらくは先頭集団からも早々に置き去りにされるのではと気が気でなかった野口みずきは、案の定その通りになります。

しかし最後は笑顔で、大きく手を振りながらゴールを駆け抜けました。みごと完走を果たしたのです。結果は23位で、タイムは2時間33分54秒。彼女にとっては自己ワースト記録です。それでも彼女は「最高の42 .195キロでした」と、あとで答えたそうです。

この本を読んでみてください係数 85/100


◆坂井 希久子
1977年和歌山県生まれ。
同志社女子大学学芸学部日本語日本文学科卒業。

作品 「虫のいどころ」「ヒーローインタビュー」「虹猫喫茶店」「ただいまが、聞こえない」「泣いたらあかんで通天閣」「羊くんと踊れば」「こじれたふたり」他

関連記事

『宇喜多の捨て嫁』(木下昌輝)_書評という名の読書感想文

『宇喜多の捨て嫁』木下 昌輝 文春文庫 2017年4月10日第一刷 第一話  表題作より 「碁

記事を読む

『僕のなかの壊れていない部分』(白石一文)_僕には母と呼べる人がいたのだろうか。

『僕のなかの壊れていない部分』白石 一文 文春文庫 2019年11月10日第1刷

記事を読む

『生きるとか死ぬとか父親とか』(ジェーン・スー)_書評という名の読書感想文

『生きるとか死ぬとか父親とか』ジェーン・スー 新潮文庫 2021年3月1日発行 母

記事を読む

『プラスチックの祈り 上』(白石一文)_書評という名の読書感想文

『プラスチックの祈り 上』白石 一文 朝日文庫 2022年2月28日第1刷 「これ

記事を読む

『 Y 』(佐藤正午)_書評という名の読書感想文

『 Y 』佐藤 正午 角川春樹事務所 2001年5月18日第一刷 [プロローグ] 1980年、9

記事を読む

『硝子の葦』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文

『硝子の葦』桜木 紫乃 新潮文庫 2014年6月1日発行 今私にとって一番読みたい作家さんです。

記事を読む

『海』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『海』小川 洋子 新潮文庫 2018年7月20日7刷 恋人の家を訪ねた青年が、海か

記事を読む

『あの日、君は何をした』(まさきとしか)_書評という名の読書感想文

『あの日、君は何をした』まさき としか 小学館文庫 2020年7月12日初版 北関

記事を読む

『蟻の棲み家』(望月諒子)_書評という名の読書感想文

『蟻の棲み家』望月 諒子 新潮文庫 2021年11月1日発行 誰にも愛されない女が

記事を読む

『妻籠め』(佐藤洋二郎)_書評という名の読書感想文

『妻籠め』佐藤 洋二郎 小学館文庫 2018年10月10日初版 父を亡くし、少年の頃の怪我がもとで

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『あいにくあんたのためじゃない』(柚木麻子)_書評という名の読書感想文

『あいにくあんたのためじゃない』柚木 麻子 新潮社 2024年3月2

『執着者』(櫛木理宇)_書評という名の読書感想文

『執着者』櫛木 理宇 創元推理文庫 2024年1月12日 初版 

『オーブランの少女』(深緑野分)_書評という名の読書感想文

『オーブランの少女』深緑 野分 創元推理文庫 2019年6月21日

『揺籠のアディポクル』(市川憂人)_書評という名の読書感想文

『揺籠のアディポクル』市川 憂人 講談社文庫 2024年3月15日

『海神 (わだつみ)』(染井為人)_書評という名の読書感想文

『海神 (わだつみ)』染井 為人 光文社文庫 2024年2月20日

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑