『燕は戻ってこない』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『燕は戻ってこない』桐野 夏生 集英社文庫 2024年3月25日 第1刷

女性の困窮と憤怒を捉え続ける著者が 代理母出産を問う衝撃長編

この身体こそ、文明の最後の利器。代理母出産をめぐり交錯する現実と欲望

「金がないことがこんなに心細く、息苦しいとは思わなかった」。憧れの東京で病院事務に就くも、非正規雇用ゆえに困窮を極める29歳女性・リキ。「割のいいアルバイト」 だと同僚に卵子提供を勧められ、ためらいながらクリニックに向かうと国内では認められていない 〈代理母出産〉 を持ちかけられ - 。女性の貧困と生殖医療ビジネスの倫理を問う衝撃作。第64回毎日芸術賞、第57回吉川英治文学賞受賞作。(集英社文庫)

上京しても何のいいこともなく、むしろ、どんどん悪くなってゆくのはなぜだろう。故郷に帰っても仕事がないし、東京に出る時に父親とは大喧嘩したから、意地でも帰りたくない。てか、その旅費もない。

仕事に恵まれない不満、これといった才能がないという劣等感、そして、リキの毎日を暗雲のごとく覆っているのは、大いなる欠乏感だった。金がないことがこんなに心細く、息苦しいとは思わなかった。一度でいいから、金の心配をしないで暮らしてみたい。
閉店間際のスーパーで安くなった食品を買い漁り、光熱費を削り、徒歩で移動して交通費を倹約し、服は古着屋でしか買わない惨めさ。そんな毎日から、一度でいいから解放されたい。(本文より)

テルにエッグドナー (=卵子提供者) のバイトをしてみないかと誘われたのは、そんな頃のことでした。問題はリキが29歳だったことで、ドナーとしてはギリギリの年齢で - アメリカの生殖医療専門クリニックの日本のエージェントだという青沼からは、むしろサロゲートマザー (=代理母) を考えてみてはどうかと勧められたのでした。その対価は、リキの予想のはるか上をいくものでした。

「私は何を売り渡したのだろう」 と、代理母になることを決意した主人公リキは思う。貧困に疲れ、卵子提供の登録をしに向かった先で代理母になることを勧められ、友人に反対され、一千万円というあり得ないと思うような金額を提示し、承諾され、それでもそれが重荷で仕方なかったはずが、いざ契約書を用意されて人工授精を開始してみると、「物事すべてがどうでもよくなり、冷笑的になった」。自分の内のそんな変化を目の当たりにして、一千万円で売り渡したものが果たして契約書にある条項だけなのだろうかという疑問が生まれるのである。

Ж

女として、かつては下着を売る女子高生やAV女優として、あるいはホステスや古い日本企業の会社員として、時に誰かの彼女として生きてきた私自身、リキとは違う形であれ色々なものに値段を付けられ、時に自分で値付けをしてきた。そしてリキと同じように、必ずしもはっきりと値段を付けられたものではないものをも売り渡してきた気がする。

そしてそのことを長く考えてきた。身体や性を売るとは具体的に何を手放す行為なのだろうか。AV出演のギャラは一体何に対して支払われたのだろうか。春を買った彼らは何を得て、売った私は何を失ったのか。彼らが買ったものと私が売ったものは同じものだろうか。考え出してから、私を納得させるような答えに辿り着かないまま二十年経った。だからリキの問いは私の問いでもある。(鈴木涼美/解説より)

リキが妊娠し、日毎子どもが生まれてくることの現実感が増すにつれ、受けたリキはもとより、子どもを依頼した草桶夫婦の二人共の心情が、揺れるわ、揺れるわ。三人それぞれに、それは考えもしなかった、そしてどうかすると “制御不能な“ 激情でした。人として、親として抱くべき葛藤の、当然のものでした。

◆NHK総合 ドラマ10 「燕は戻ってこない」 2024年4月30日(火) 22時から放送スタート予定 (全10回) 出演:石橋静河 稲垣吾郎 内田有紀 ほか 

この本を読んでみてください係数 85/100

◆桐野 夏生
1951年石川県金沢市生まれ。
成蹊大学法学部卒業。

作品 「OUT」「グロテスク」「錆びる心」「夜また夜の深い夜」「奴隷小説」「バラカ」「猿の見る夢」「夜の谷を行く」「路上のX」「日没」「砂に埋もれる犬」「もっと悪い妻」他多数

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