『でえれえ、やっちもねえ』(岩井志麻子)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/07
『でえれえ、やっちもねえ』(岩井志麻子), 作家別(あ行), 岩井志麻子, 書評(た行)
『でえれえ、やっちもねえ』岩井 志麻子 角川ホラー文庫 2021年6月25日初版
コレラが大流行する明治の岡山で、家族を喪った少女・ノリ。ある日、日清戦争に出征しているはずの恋人と再会し、契りを交わすが、それは恋人の姿をした別の 〈何か〉 だった。そしてノリが産んだ異形の赤子は、やがて周囲に人知を超える怪異をもたらしはじめ・・・・・・・(「でえれえ、やっちもねえ」)。江戸、明治、大正、昭和。異なる時代を舞台に繰り広げられる妖しく陰惨な4つの怪異譚。あの 『ぼっけえ、きょうてえ』 の恐怖が甦る。(角川ホラー文庫)
- 岡山でも西洋料理店が開かれ、写真機も自転車も入ってきたとはいえ、未だ幕末の空気に満ちていた明治十九年。
前年に長崎で発生した虎狼痢 (コロリ) は、大阪で再燃し燻っていた。岡山では三月の半ばに大阪帰りの者が発病し、五月になって瞬く間に岡山県下に広がった。
「でえれえ、やっちもねえ」
物凄く、怖い。とてつもなく、困る。恐怖と憤怒と不安は岡山の人々に、やるかたない嘆息とともに吐き出された。でえれえ、やっちもねえ。でえれえ、やっちもねえ。
それまでも毎年、虎狼痢に罹る者は少なからずいたが、特に激しかったのが十二年と十九年だ。
田を持たない父は、田畑の手伝いもしていたが人力車夫としても働き、そちらの賃金の方が多かったから、困窮の上に困窮することとなった。港や街道に臨時の検疫所や検査所が設けられ、たびたび通行が遮断されたからだ。
「具合の悪い者は、居らんかな」
白い装束の巡査や、異様な防護服の役人がいきなり家の戸をこじ開けて入ってきたのを、ものすごい化け物に襲われたとノリは覚えている。ノリの親に限らず、
「避病院に送られたら、生き胆を取られるんじゃと」
「睾丸を抜かれるらしいで」
などと噂されていたから、疑わしき者だけでなく、明らかなる罹患者を引きずり出すのも大変だった。なんといっても家から罹患者を出せば、下手をすれば村八分になりかねない。家の中に、病人は隠すのが常だった。
「でえれえ、やっちもねえ」
十一歳だったノリは、父と母と弟を失った。即ち、自分の命以外のすべてを失った。
「なんでうちだけ、生き残ったんじゃろ」
親指を折り、人差し指を折り、中指を折る。死者の数を数えるに、指では足りぬ。
夏だったのに、その指はかじかむように強張った。怖い思い出に縛られるからか、死者達に指をつかまれるからか。
コレラは虎狼痢、虎裂拉、虎烈刺といった漢字が当てられるが、すべて虎がついている。
ゆえに、虎将軍とも呼ばれた。
使者神が狼である木野山神社は、大昔から続く由緒ある神社だが、虎に勝つのは狼だとなってからは、退散祈願が物凄いことになった。
遠くて行けない人のために、木野山神社の神輿を担いで練り歩こうとなり、人が集まればかえって感染は増えると、県当局が行列の禁止通達を出すこととなった。それでも神輿は担ぎ出され、拝む人々は殺到し、半ば自棄で酒を呷った。
正しく分霊して貰い、別の神社に木野山の神も祀られたが、怪しげな商売にする者も後を絶たなかった。焼け太りといっていいのか、虎狼痢で儲けたのは祈禱師や占い師だ。
それらをノリは、恐怖や悲嘆とは少し違う横目で見ていた。
「何を信じたら、ええんじゃ。けど、ああいう仕事は金になるんじゃな」
以上は (第二話)「でえれえ、やっちもねえ」 の本文からの抜粋で、恐怖に至る前段部を紹介しています。
艱難辛苦の末、ノリは成人し、縁あって小平という男と結ばれます。その後小平は日清戦争に徴兵され、やがて無事に戻って来るのですが、途中で一度、不思議な事がありました。
ある晩、ノリが風呂屋から戻ってきて縫い物をしていると、ふっと懐かしい匂いがします。するとそこには、着物姿の小平が座っていたのでした。まだ日清戦争は終わっていません。どうしたことかとノリが訊くと、小平は 「ちょっと休憩をもろたんじゃ」 と・・・・・・・。
そして二人は、また夫婦の契りを結んだ。確かな小平の肌と匂い。遠くで、狼の遠吠えが聞こえた気がした。狼は塩を好む、と、ふと思い出す。
だからか。小平に、股間を盛んに舐められた。長い、ざらついた舌で。こんな舌じゃったか。気持ちええが、気持ちええと思うことこそが、恐ろしい。(本文より)
ノリが、小平であって小平ではない何ものかの子を身籠ったのは、この時でした。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆岩井 志麻子
1964年岡山県和気郡和気町生まれ。
岡山県立和気閑谷高等学校商業科卒業。
作品 「ぼっけえ、きょうてい」「チャイ・コイ」「夜啼きの森」「岡山女」「自由戀愛」「現代百物語」シリーズ 他多数
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