『さようなら、オレンジ』(岩城けい)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/13 『さようなら、オレンジ』(岩城けい), 作家別(あ行), 岩城けい, 書評(さ行)

『さようなら、オレンジ』岩城 けい ちくま文庫 2015年9月10日第一刷

オーストラリアに流れてきたアフリカ難民サリマは、精肉作業場で働きつつ二人の息子を育てている。母語の読み書きすらままならない彼女は、職業訓練校で英語を学びはじめる。そこには、自分の夢をあきらめ夫について渡豪した日本人女性「ハリネズミ」との出会いが待っていた。人間としての尊厳と〈言葉〉を取り戻し異郷で逞しく生きる主人公の姿を描いて、大きな感動をよんだ話題作。(ちくま文庫解説より)

これはきっと自分の心を深く揺さぶる本になるにちがいない - 読む前からそんなふうに感じさせる本がある - 『九年前の祈り』で芥川賞作家となった小野正嗣が書く解説は、こんな文章から始まります。では、実際にどれくらいの評価だったのかと言いますと、

もちろん賞だけが全てではありませんが - 第8回大江健三郎賞受賞、第29回太宰治賞受賞、第150回芥川賞候補、2014年本屋大賞第4位、キノベス! 2014年第2位 - と錚々たるラインナップで、質の高さが分かろうかというものです。

物語の冒頭、おそらく多くの読者がそう感じるであろう、(この小説を象徴する)最も印象的なシーンがあります。やや朴訥なふうに語られるそれは、アフリカ難民のサリマが置かれた境遇や、彼女の身にふりかかるであろう幾多の困難を想起させて胸が痛くなります。
・・・・・・・・・・
サリマの仕事は夜が明けきらないうちから始まります。仕事が終わり、昼近くに帰宅した彼女は、決まってシャワーを浴びます。それが仕事を始めてからの習慣になっています。

シャワーの中で彼女はよく泣きます。2つの蛇口を同時にひねり、真水と熱湯が溶け合って適温になると、決まって涙が出ます。シャワーを浴びているさなかでさえ、はっきりとそれが涙のあたたかみであると分かります。

なめした革みたいにすべすべした黒い肌。身体の曲線は卵のように無駄がありません。その誇らしい身体を洗い包みながら、彼女はさめざめと泣きます。湯煙の中、泣き声がバスルームの天井にエコーし、白い羽のようにして裸体に舞い落ちると、サリマはさらに大声をあげて泣きます・・・
・・・・・・・・・・
大きな柱になっているのが「言葉」- 言い換えると、自分が生まれ育った国固有の「母語」と、それ以外の「第二言語」(ここでは「英語」がそれに相当します)の間を揺れ惑い格闘する人の様子が描かれています。

サリマは遠くアフリカにある母国の内戦を逃れ、たまたまオーストラリアという「大きな島」へ行き着いた難民です。幼い2人の息子を抱え、生き延びるためだけに生きてきた彼女は、母語の読み書きさえ覚束ない20代半ばの女性です。

夫には逃げられ、これといった才覚もない彼女は、やっとのことスーパーの食品加工場に雇われて肉の解体作業を担当することになります。女手ひとつで子供を育てながらの日々は大変だったのですが、何より「言葉」を理解しようと、英語を習うことを思い立ちます。

サリマが通う英語教室には、サリマと同じ黒髪の、ハリネズミみたいに硬くてまっすぐな直毛のアジア人がいます。見たままに、サリマは彼女のことを「ハリネズミ」と呼びます。

ハリネズミは、主婦のかたわら英語を学んでいます。字も読めず、帰る故郷もないサリマにとってハリネズミは羨望の的であり、ときに怒りすら覚える存在です。ところが、ある出来事をきっかけに2人の距離は一気に近づくことになります。
・・・・・・・・・・
以上が、この小説の「核」となる部分です。これとは別に、もうひとつの物語 - 小説中では、「恩師に宛てた手紙」という形 - が合間合間に挿入されています。

手紙の書き手の「私」は、(これも何度か合間に差し挟まれるメール文から察するに)「イトウサユリ」という日本人女性。対して、受け手は「ジョーンズ先生」という、おそらくは「イトウサユリ」なる女性がかつて小説などの創作を学んでいた教師です。

「私」は「英語」で小説を書こうとしているのですが、うまくいかずに書きあぐねています。大学で働く夫の都合で渡豪し、生まれたての娘と暮らす「私」もまた孤独です。自分の夢を諦められず、さらに英語に磨きをかけようと、娘を預けて英語教室に通っています。

ところが、「私」に予期せぬ不幸が訪れます。打ちのめされ、立ち直ろうと働き始めた職場で再会したのが「ナキチ」- 彼女はアフリカ出身の、かつて通った英語教室のクラスメイトです。

あるとき、そのナキチが「英語」で作文を書きます。自分の出目であるアフリカについて書かれたそれは怖ろしく稚拙なのですが、それにもかかわらず強く「私」の胸を打ちます。文章を目にした「私」は、ようやくにして「書く」ことの意味を理解します。

「ナキチ」とは「サリマ」のことではないのか? - いやいや、そうではないのです。「私」が書く小説のヒロインが「サリマ」で、「ナキチ」がそのモデルになっている - そういうことです。

この本を読んでみてください係数 85/100


◆岩城 けい
1971年大阪府大阪市生まれ。日本の大学を卒業したあと、単身オーストラリアへ渡る。ニューサウスウエールズ州のヴィジュアルアート科ディプロマを修了。現地で日本人男性と結婚。在豪20年。ビクトリア州在住。(2013年9月現在)

作品 「Masato」

関連記事

『ジェントルマン』(山田詠美)_書評という名の読書感想文

『ジェントルマン』山田 詠美 講談社文庫 2014年7月15日第一刷 第65回 野間文芸賞受賞

記事を読む

『深い河/ディープ・リバー 新装版』(遠藤周作)_書評という名の読書感想文

『深い河/ディープ・リバー 新装版』遠藤 周作 講談社文庫 2021年5月14日第1刷

記事を読む

『眠れない夜は体を脱いで』(彩瀬まる)_書評という名の読書感想文

『眠れない夜は体を脱いで』彩瀬 まる 中公文庫 2020年10月25日初版 自分の

記事を読む

『私の家では何も起こらない』(恩田陸)_書評という名の読書感想文

『私の家では何も起こらない』恩田 陸 角川文庫 2016年11月25日初版 私の家では何も起こら

記事を読む

『殺人出産』(村田沙耶香)_書評という名の読書感想文

『殺人出産』村田 沙耶香 講談社文庫 2016年8月10日第一刷 今から百年前、殺人は悪だった。1

記事を読む

『あちらにいる鬼』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

『あちらにいる鬼』井上 荒野 朝日新聞出版 2019年2月28日第1刷 小説家の父

記事を読む

『ノボさん/小説 正岡子規と夏目漱石』(伊集院静)_書評という名の読書感想文

『ノボさん/小説 正岡子規と夏目漱石』(下巻)伊集院 静 講談社文庫 2016年1月15日第一刷

記事を読む

『青春ぱんだバンド』(瀧上耕)_書評という名の読書感想文

『青春ぱんだバンド』瀧上 耕 小学館文庫 2016年5月12日初版 鼻の奥がツンとする爽快青春小説

記事を読む

『十九歳のジェイコブ』(中上健次)_書評という名の読書感想文

『十九歳のジェイコブ』中上 健次 角川文庫 2006年2月25日改版初版発行 中上健次という作家

記事を読む

『天国までの百マイル 新装版』(浅田次郎)_書評という名の読書感想文

『天国までの百マイル 新装版』浅田 次郎 朝日文庫 2021年4月30日第1刷 不

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『今日のハチミツ、あしたの私』(寺地はるな)_書評という名の読書感想文

『今日のハチミツ、あしたの私』寺地 はるな ハルキ文庫 2024年7

『アイドルだった君へ』(小林早代子)_書評という名の読書感想文

『アイドルだった君へ』小林 早代子 新潮文庫 2025年3月1日 発

『現代生活独習ノート』(津村記久子)_書評という名の読書感想文

『現代生活独習ノート』津村 記久子 講談社文庫 2025年5月15日

『受け手のいない祈り』(朝比奈秋)_書評という名の読書感想文

『受け手のいない祈り』朝比奈 秋 新潮社 2025年3月25日 発行

『蛇行する月 』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文

『蛇行する月 』桜木 紫乃 双葉文庫 2025年1月27日 第7刷発

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑