『コクーン』(葉真中顕)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/09 『コクーン』(葉真中顕), 作家別(は行), 書評(か行), 葉真中顕

『コクーン』葉真中 顕 光文社文庫 2019年4月20日初版

1995年3月20日、丸の内で起こった無差別乱射事件。カルト教団 『シンラ智慧の会』 による凶行の首謀者は、忌まわしき過去を背負う教祖、天堂光翅であった。彼や教団に関わった者たちの前に現れる一匹の煌く蝶。金色の翅が導くのは地獄か、それとも・・・・・・・。平成を揺るがすテロ事件が生み落とした絶望とかすかな希望を、幻想的かつスリリングに物語る衝撃作! (光文社文庫)

コクーン - 2016

真夜中、不意に目を覚ますと、私の心は得体の知れない悲しみに満たされていた。
目と鼻の奥に痺れを感じる。指で頬に触れてみると、かすかに湿っている。私は泣いていたのだ。

きっと酷く悲しい夢を見たのだろう。でも、どんな夢だったのかは思い出せない。ただ、心と身体に、そのなごりだけが濃厚に残っている。
私はどうしようもない不安に駆られてしまう。
大切なものをすべて失ってしまうような、不安。
何もない世界に独りだけ取り残されてしまうような、不安。
これは小さな頃から、ずっとずっと私が抱えている不安だ。
私は慌てて、隣で寝息をたてている瑠璃のことを抱き寄せた。

あ・・・・・・・、んっ・・・・・・・
瑠璃は小さな声を漏らした。その髪の毛から、かすかに昨日のシャンプーの匂いがした。
マコさん? どうしたの
その猫のような目をうっすら開けた瑠璃が、まどろんだ声で、尋ねる。
ううん、ただ、ギュッとしたくなっただけ
そう・・・・・・・
瑠璃は再び目を閉じ、寝息をたてはじめた。
この不安が、どこからやってきたのか、私にはよくわからない。たぶんものごころがついた頃には、もう、私の中にあった。そしてそれは、この世界のありようを知るにつれて、大きくなっていった。

自分が他の多くの女の子とは性的指向の違う、マイノリティだと自覚したとき。学校で目立たないタイプの男子が、いじめを受けて不登校になるのを黙って傍観していたとき。テレビのニュースで、幼い子どもが義理の父親に殴り殺された事件を知ったとき。駅前でやっていた遠い国の貧困を救うための募金活動の前を素通りしたとき。

なぜ私はこんなふうに生まれてしまったの? なぜ彼はいじめられなければならないの? なぜ罪もない子どもが殺されてしまうの? なぜこの世界では不条理なことが起きてしまうの?

そんな問いが浮かぶたび、不安は大きく育っていった。
それは、かけがえのないものを手に入れた今も、消えてはくれない。いや、かけがえのないものを手に入れたからこそ、より大きくなった。

自分と同じマイノリティの瑠璃と出会い、恋に落ち、パートナーになった。彼女のお父さんも認めてくれ、家族のように一緒に暮らしながら、お店もやるようになった。三年間も、穏やかで充実した生活が続いている。

奇跡的な偶然が重なって、私は幸福を手に入れた。だからこそ、不安になる。
偶然に手に入れた幸せは、偶然失われてしまうかもしれない。この世界の不条理は、いつか私からすべてを奪うのかもしれない。
いや、大丈夫、きっと大丈夫。
私は瑠璃を抱きしめながら、自分に言い聞かせる。

- あの方を信じていれば、大丈夫。

この不安を唯一、和らげてくれるのは、あの方の教えだけだ。
私があの方を知ったのは、東日本大震災の翌年、瑠璃と一緒に行った東北へのボランティア旅行中、被災地の街で見かけた署名も何もない張り紙がきっかけだった。
私は瑠璃の寝顔を眺める。
この子はまだ、あの方のことを知らない。

そろそろ教えてあげなきゃいけない。ただし、妙な誤解や反発をされないよう、慎重に。あの方の素晴らしさを教えてあげなきゃいけない。場合によっては、少し嘘をついたり、強引な手を使ってでも・・・・・・・。

それが瑠璃のためにもなるのだから。あの方 - “沼” - は、私たちを救ってくださるのだから。狂った神様がつくったこの 悪の世界の不条理から。

あの方は正しい。あの方を信じる私も正しい。
だから大丈夫、きっと大丈夫。大丈夫、大丈夫、大丈夫・・・・・・・。

そう何度も言い聞かせるうちに、心は安らぎで満たされてゆく。
私は布団を引き寄せ、抱きしめた瑠璃と一緒にくるまる。繭で身体を包む幼虫のように。そして私は再び、眠りに落ちていった。

※本作は、第二次世界大戦中から現代までが舞台となっています。本文中に 「私生児」 「トルコ風呂」 「インバイノコ」 「按摩」 など、今日の観点からすると不快・不適切とされる用語が用いられていますが、物語の根幹に関わる設定と時代背景に鑑み、当時用いられていた言葉をそのまま使用しました。 2016年10月 光文社刊

この本を読んでみてください係数 80/100

◆葉真中 顕
1976年東京都生まれ。
東京学芸大学教育学部中退。

作品 「ロスト・ケア」「絶叫」「ブラック・ドッグ」「政治的に正しい警察小説」「凍てつく太陽」他

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