『蛇を踏む』(川上弘美)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2019/07/25
『蛇を踏む』(川上弘美), 作家別(か行), 川上弘美, 書評(は行)
『蛇を踏む』川上 弘美 文芸春秋 1996年9月1日第一刷
ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった。
こんな書き出しで始まる芥川賞受賞作 『蛇を踏む』 は、川上弘美が38歳のときの作品です。この人らしく、淡々とした語り口調で、日常の些末な風景が綴られていくのだろうと思いきや、踏んだ蛇がいきなり話し出すのには驚かされました。
「踏まれたらおしまいですね」 と蛇は言い、そののち50歳くらいの人間の女性になって、物語の主人公・サナダさんの住む部屋の方へ歩いて行きます。
サナダさんは、女学校の理科の教師を4年で辞めて、今はカナカナ堂という数珠屋の店番をしています。店主のコスガさんは仕入れやお寺さんの相手、数珠づくりはコスガさんの奥さんがしています。カナカナ堂は3人だけの、小さな数珠屋でした。
サナダさんが仕事を終えて自分の部屋へ戻ると、絨毯の中ほどに50歳くらいに見える見知らぬ女が座っています。彼女は、さては蛇だなと気付きます。「おかえり」 とあたり前の声で言われ、サナダさんは思わず 「ただいま」 と言ってしまいます。
女の姿に化けた蛇は、サナダさんの好物のつくね団子やいんげんの煮物、おからや刺身を並べ、ビールまで用意します。まるで前からこの部屋にいたように、二人はビールを飲みながら世間話をします。女は自分のことを、サナダさんのお母さんだと言います。
サナダさんのお母さんは故郷の静岡にいます。当人は日本人の平均的な顔で、女は西洋的な彫りの深い顔をしています。睫毛が長く、頬骨が高くて目や口のまわりの皴が皮膚の薄さを感じさせます。サナダさんは心配になり、実家へ電話をしますが、お母さんに変わりはありません。
「もう寝るわ」 と突然に言うと、女は部屋に一つだけある柱にからまります。女の体は薄くなって柱にぴたりと貼りつき、するすると天井に登って行きます。登り切ると落ちつき、いつの間にか蛇に戻っています。天井に描かれたような形になって目を閉じた蛇は、いくら話しかけても、長い棒でつついても、もう決して動くことはありません。
さて、みなさんなら何と思うのでしょう? ここまではほんのさわりで、良いか悪いかといったことではなく、何より蛇が口をきいて人間の女に変身するというのが肝要で、これは何だか面白そうだと思うか、あり得ない状況に興味をなくすか、読者は早々に二者択一を迫られます。
私はたまらず、ネットで芥川賞の選評を検索し、選者の評価を読んでみました。そして、ちょっとほっとしたのです。11人いる選者の選評がバラバラで、概ね高い評価ではあるのですが (受賞作ですから当然です! )、視点はそれぞれ微妙に異なっていて、中には 「蛇が変身する」 という設定そのものを否定したコメントもあります。
書いた本人の真意をピタリと言い当てるなど、中々にできるものではありません。このような小説の場合は、(私のような凡庸な者は特に) 余計なことをあれこれ考えず、ありのままを素直に受け入れる気持ちこそが大事なんだと。そう自分に言い聞かせながら読みました。
川上弘美の小説が支持されるのは、何と言っても文章の巧みさと物語のいかにも自然な流れではないでしょうか。文章を巧みに書くとは、どれだけ平易に(巧みさを気付かせずに)書くかの技術のことですし、無いことをさも在るように読ませるのが物語なら、『蛇を踏む』という小説はみごとにそれを体現しています。
蛇は、思いの外浸食しています。サナダさんだけでなく、コスガさんの奥さんにも憑りついています。サナダさんはコスガさんのお伴で、たまに甲府の願信寺というお寺まで数珠の納品に出かけるのですが、実は、住職の奥さんが蛇の化身だったりします。
サナダさんの部屋に居着いた蛇は、消えるどころかますます存在感を増し、サナダさんに 「蛇の世界へ入ってこい」 としきりに誘います。
そういえば、他人との間にはかならず感じる壁 - その壁が、不思議なことに蛇との間にはないことに、サナダさんは、端から気が付いています。
※単行本には 「蛇を踏む」 の他に、「消える」「惜夜記(あたらよき)」 が収められています。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。本名は山田弘美。
お茶の水女子大学理学部卒業。高校の生物科教員などを経て作家デビュー。俳人でもある。
作品 「溺レル」「センセイの鞄」「真鶴」「風花」「これでよろしくて?」「パスタマシーンの幽霊」「どこから行っても遠い町」他多数
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