『シャイロックの子供たち』(池井戸潤)_書評という名の読書感想文

『シャイロックの子供たち』池井戸 潤 文春文庫 2008年11月10日第一刷

ある町の銀行の支店で起こった、現金紛失事件。女子行員に疑いがかかるが、別の男が失踪・・・・・・・!?  ”たたき上げ” の誇り、格差のある社内恋愛、家族への思い、上がらない成績・・・・・・・事件の裏に透ける行員たちの人間的葛藤。二転三転する犯人捜し、組織の歯車の中でリアルな生が交差する圧巻の金融クライム・ノベル! (文春文庫)

花の咲かない人生というのもあるのだろうか。その日、午後五時を過ぎても遠藤は店に戻ってはこなかった。

第四話「シーソーゲーム」の半ばあたりの場面。思い通りにいかない人生の悲哀感に満ち満ちたこのときの光景が、他人事とは思えず、強く印象に残っています。

遠藤拓治は業務課の課長代理(= 係長)。35歳。エリア内における取引企業の新規開拓が担当の営業職で、何より「結果」が問われる日々を送っています。しかし、やれどもやれども成果は上がらず、追い詰められて、あげく彼はとうとう気が変になります。

ようやくにして足掛かりを得たといい、遠藤が課長の鹿島を連れ出した先は、洗足池(せんぞくいけ)を横切った奥にある千足八幡神社の境内でした。

遠藤が連れて行こうとしているのは予てよりの営業先・洗足池板金で、課長と二人して社長と出会い、重ねて新規取引のお願いをする - 当然のこと、鹿島はそれがための同行だと思っています。ところが、

会社への近道の途中とばかり思っていた矢先に、遠藤の、「社長! 」という声がします。鹿島はその視線の先を探すのですが、そこに人の気配はありません。

「社長、本日はうちの課長をお連れしました」 遠藤は、顔を輝かせて鹿島を振り返る。
「課長、こちらが洗足池板金の社長さんです。どうぞ、ご挨拶ください」

そこには、古ぼけた狛犬が鎮座していた。
狛犬の台座や足元には、銀行の粗品がまるでおままごとのような丁寧さで並べられている。

あまりのことに唖然として言葉が出ない課長の鹿島。が、はっと我に返ります。気が動転し、とっさに、ここは合わせるのが一番だという考えが頭に浮かびます。

「失礼します」 鹿島は遠藤とならんで地面の上に正座した。
「課長の鹿島でございます」
狛犬に向かって深々と頭を下げたとき、頭上のどこかでカラスが鳴いた。

ここまでではないにせよ、サラリーマンのあなたならきっとわかるはずです。遠藤がしたことは滑稽に過ぎますが、誰も笑えません。課長の鹿島ですら、いや、鹿島だからこそ、笑うわけにはいかないのだろうと。

逃れようのないノルマに追い立てられ、しかし為す術はなく、打ちひしがれて店に戻るとき、何度思ったことか。俺は一体なにをしているんだろう、と。その頃の(言うに言われぬ)惨めな気持ちを思い出し、私は少し涙ぐんでしまいました。

この小説は、東京第一銀行長原支店で働く様々な年齢や職種の行員たちの姿を描く短篇集として幕を開けます。モラルハラスメントを繰り返す副支店長の古川、努力を重ねても成果の上がらない現状に苦しむ融資課の次席・友野、亡き父に代わって一家を支える行員の北川愛理・・・・

そして、半ば前の第五話に至り、長原支店で密かに進行する犯罪を追う物語が浮上してきます。最初感じる各話かぎりの短篇集ではなくして、それぞれが相互に関わり合う長篇ミステリーへと変貌を遂げます。

名だたるメガバンクに勤める銀行員といえども、人は人。なまじ「過大な」自信を持って入行したばかりに、ひとたび出世の道が閉ざされるとなると、当人にとってそれは自分を全否定されるという切羽詰まった思いにもつながりかねません。

そのとき男は、己を見失うことがあります。父や母、妻や子供がいるのをわかっていながら、(常にはない)暗く歪んだ衝動をどうすることもできません。承知の上で、それでも彼らは諦めようとしません。その間際を描く巧みさを、思う存分味わってください。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆池井戸 潤
1963年岐阜県生まれ。
慶應義塾大学文学部および法学部卒業。

作品 「果つる底なき」「M1」「銀行狐」「最終退行」「不祥事」「空飛ぶタイヤ」「鉄の骨」「民王」「陸王」「下町ロケット」「七つの会議」他多数

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