『私はあなたの記憶のなかに』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『私はあなたの記憶のなかに』角田 光代 小学館文庫 2020年10月11日初版

短篇の名手・角田光代の魅力が溢れる傑作八篇を収録。
父とガムと彼女 初子さんは扉のような人だった。小学生だった私に、扉の向こうの世界があることを教えてくれた。/猫男 K和田くんは消しゴムのような男の子だった。他人の弱さに共振して自分をすり減らす。/水曜日の恋人 イワナさんは母の恋人だった。私は、母にふられた彼と遊んであげることにした。/地上発、宇宙経由 大学生・人妻・夫・元恋人。さまざまな男女の過去と現在が織りなす携帯メールの物語。/私はあなたの記憶のなかに 姿を消した妻の書き置きを読んで、ぼくは記憶をさかのぼる旅に出た。(ほか三篇) (小学館文庫)

[解説] 五感に働きかける豊かな物語  野崎 歓 (フランス文学者) より抜粋

角田光代は数々の長編小説によって読者の心をつかんできた。それに加えて彼女が短編の名手であることも忘れるわけにはいかない。本書は、『空中庭園』 (2002年) や 『対岸の彼女』 (2004年)、『八日目の蟬』 (2007年) といった傑作長編と同時期の短編をえりすぐった一冊である。

時代背景にはなつかしさを誘うところがあるかもしれない (「地上発、宇宙経由」 は携帯メールが一般化した当時の様子を伝えている)。そのぶん、作品としてしっかりと熟した印象がある。タイトルが示しているとおり、記憶が重要なテーマになった短編がならぶ。初出から少し時を隔てたことで、そのテーマがいっそう胸に染みて迫ってくる。

最後に置かれた表題作 「私はあなたの記憶のなかに」 は、全巻のしめくくりとして - その先に開かれたいわゆるオープンエンディングとして - よく効いている (じつは僕はこの作品がとても好きなのだが、今回読み返していっそう好きになった)。

まだ若い夫婦の妻が、ゴールデンウィークが始まったその日、不意に行方をくらましてしまう。さがさないで、と妻は書いていた。私はあなたの記憶のなかに消えます。そんな重大な宣言を焼き肉屋のチラシ の裏に書きつけて家出するとは、よほど気がせいていたのか。これまで結婚生活には別段波瀾もなかったようなのに、妻のうちには夫へのうっぷんが限界までたまっていたのか。それともまったく突発的なふるまいなのか?

書置きに記されていた夜行列車墓地の桜夏の海レストランの格子窓という言葉は、夫婦が恋人時代に訪ねた場所や、新婚旅行と関係していた。そのどこかに私はいるから探してごらん、というメッセージだと読み取って、夫は捜索の旅に出る。妻が仕掛けた一種のゲームと考えて・・・・・・・(以下略)

実は夫は、薄々勘付いているのだと思います。今さら何処へ行こうと、二度と妻には会えないことを。

「私はあなたの記憶のなかに消えます。」 と書いたのは、夫に向けた、妻の揺るぎない決意表明であると同時に、ひととき愛した人への、せめてもの思いやりなのでしょう。

この本を読んでみてください係数  85/100

◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「空中庭園」「ツリーハウス」「かなたの子」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「笹の舟で海をわたる」「ドラママチ」「トリップ」「それもまたちいさな光」他多数

関連記事

『喧嘩(すてごろ)』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『喧嘩(すてごろ)』黒川 博行 角川書店 2016年12月9日初版 「売られた喧嘩は買う。わしの流

記事を読む

『中尉』(古処誠二)_書評という名の読書感想文

『中尉』古処 誠二 角川文庫 2017年7月25日初版発行 敗戦間近のビルマ戦線に

記事を読む

『破蕾』(雲居るい)_書評という名の読書感想文

『破蕾』雲居 るい 講談社文庫 2021年11月16日第1刷 あの 冲方 丁が名前

記事を読む

『笑う山崎』(花村萬月)_書評という名の読書感想文

『笑う山崎』花村 萬月 祥伝社 1994年3月15日第一刷 「山崎は横田の手を握ったまま、無表情に

記事を読む

『八日目の蝉』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『八日目の蝉』角田 光代 中央公論新社 2007年3月25日初版 この小説は、不倫相手の夫婦

記事を読む

『知らない女が僕の部屋で死んでいた』(草凪優)_書評という名の読書感想文

『知らない女が僕の部屋で死んでいた』草凪 優 実業之日本社文庫 2020年6月15日初版

記事を読む

『このあたりの人たち』(川上弘美)_〈このあたり〉 へようこそ。

『このあたりの人たち』川上 弘美 文春文庫 2019年11月10日第1刷 この本に

記事を読む

『世界から猫が消えたなら』(川村元気)_書評という名の読書感想文

『世界から猫が消えたなら』川村 元気 小学館文庫 2014年9月23日初版 帯に「映画化決定!」

記事を読む

『ウィステリアと三人の女たち』(川上未映子)_書評という名の読書感想文

『ウィステリアと三人の女たち』川上 未映子 新潮文庫 2021年5月1日発行 大き

記事を読む

『鈴木ごっこ』(木下半太)_書評という名の読書感想文

『鈴木ごっこ』木下 半太 幻冬舎文庫 2015年6月10日初版 世田谷区のある空き家にわけあり

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『揺籠のアディポクル』(市川憂人)_書評という名の読書感想文

『揺籠のアディポクル』市川 憂人 講談社文庫 2024年3月15日

『海神 (わだつみ)』(染井為人)_書評という名の読書感想文

『海神 (わだつみ)』染井 為人 光文社文庫 2024年2月20日

『百年と一日』(柴崎友香)_書評という名の読書感想文

『百年と一日』柴崎 友香 ちくま文庫 2024年3月10日 第1刷発

『燕は戻ってこない』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『燕は戻ってこない』桐野 夏生 集英社文庫 2024年3月25日 第

『羊は安らかに草を食み』(宇佐美まこと)_書評という名の読書感想文

『羊は安らかに草を食み』宇佐美 まこと 祥伝社文庫 2024年3月2

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑