『ポトスライムの舟』(津村記久子)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/13
『ポトスライムの舟』(津村記久子), 作家別(た行), 書評(は行), 津村記久子
『ポトスライムの舟』津村 記久子 講談社 2009年2月2日第一刷
お金がなくても、思いっきり無理をしなくても、夢は毎日育ててゆける。契約社員ナガセ29歳。彼女の目標は、自分の年収と同じ世界一周旅行の費用を貯めること、総額163万円。第140回芥川賞受賞作。(「BOOK」データベースより)
お金がないのは、まあ良しとしましょう。問題は、その次の「思いっきり無理をしなくても・・・」という部分です。
はっきり言ってナガセは無理のしまくりで、これを無理と言わずして何が無理かというぐらいに働いています。大概の人には真似ができないくらいに働いて、ナガセはなるだけ無駄な時間をなくしたいと思っています。
メインの仕事は、工場でのライン作業 - 流れてきた乳液のキャップを固く閉めて、表裏上下とひっくり返して確かめ、再びコンベアに戻すことの繰り返しなのですが、ナガセには、自分は集中力があり、この仕事には向いているという自負と自覚があります。
元々時給800円のパートだった彼女は、現在月給が手取り138,000円の契約社員に昇格しています。相変わらずの安月給ではあるものの、別のラインでのいざこざなどを聞くにつけ、自分が今いる状況を「宝石に劣らず貴重な」もののようにも思っています。
工場勤めが終わった後は、友人のヨシカが営むカフェへ向かいます。ここでのアルバイトが、月曜から土曜の午後6時から9時まで。時給は、850円。土曜の昼間は商工会館で老人相手にパソコン講師を務め、ときどき自宅でデータ入力の仕事もしています。
もちろん稼ぐがためにいくつもの仕事を掛け持ちしているわけですが、ナガセの場合、どちらかと言えば「何もせずにいる」時間を極力なくしたいので「わざと」過密なスケジュールを自分に課しているようなところがあります。
そして、時にこんなことを思います。
工場の給料日があった。弁当を食べながら、いつも通りの薄給の明細を見て、おかしくなってしまったようだ。『時間を金で売っているような気がする』というフレーズを思いついたが最後、体が動かなくなった。働く自分自身にではなく、自分を契約社員として雇っている会社にでもなく、生きていること自体に吐き気がしてくる。
時間を売って得た金で、食べ物や電気やガスなどのエネルギーを細々と買い、なんとか生き長らえているという自分の生の頼りなさに。それを続けなければいけないということに。
つまり、ナガセは今ある状況の中で精一杯生きてはいるのですが、満足しているかと言えばそういうことではありません。しかるべき理由があって自分は今ここにいて、この状況を維持する以外に手立てが見つからないのでそうしているまでのことなのです。
こんな状況になる前のナガセには、実は苦々しい経験があります。新卒で入った会社を、上司からの凄まじいモラルハラスメントが原因で退社し、その後の1年間を働くことに対する恐怖で棒に振ってしまっているのです。時はまさに「就職氷河期」のことです。
・・・・・・・・・・
「つつましやかに生きている女性の、そのときどきのささやかな縁によって揺れ動く心が、清潔な文章で描かれていて、文学として普遍の力を持っている」- とは、選考委員の一人・宮本輝氏の選評です。
しかし、本当に「お金がなくても、思いっきり無理をしなくても」、「夢は毎日育ててゆける」のだろうか - と考えてやや複雑な思いになるのは、私がもう若くはないからなのでしょうか。ナガセの実情と較べ、宮本氏の文章があまりに綺麗に過ぎると感じるのは、私だけのことなのでしょうか・・・
津村記久子の小説に登場する「働く女性」のキャラクターが大好きなのですが、この『ポトスライムの舟』に限って言うと、ちょっと痛々しくて読むのが辛くなってしまいます。ナガセの無理の具合が半端なくて、他の作品のように上手に笑うことができません。
ナガセが1年間工場で働いて、まるまるその給料を貯め込んだとするなら、確かに世界一周のクルージング旅行に行くだけの費用は貯まります。それが、163万円。彼女は、パプアニューギニアの海でアウトリガーカヌーに乗るのを、実際に夢見たりもします。
しかし、それはあくまで夢であり、現実的ではありません。およそ行けるはずのない旅行について、そうと分かっていながら、クルージングの資料請求ハガキを工場へ取りに行こうとするナガセが、私には他に拠り所のない若者に見え、不憫に思えてしまうのです。
※ 単行本には「十二月の窓辺」が併録されています。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆津村 記久子
1978年大阪府大阪市生まれ。
大谷大学文学部国際文化学科卒業。
作品 「まともな家の子供はいない」「君は永遠にそいつらより若い」「カソウスキの行方」「ワーカーズ・ダイジェスト」「アレグリアとは仕事はできない」「ミュージック・ブレス・ユー!! 」「とにかくうちに帰ります」「婚礼、葬礼、その他」他多数
関連記事
-
-
『作家的覚書』(高村薫)_書評という名の読書感想文
『作家的覚書』高村 薫 岩波新書 2017年4月20日第一刷 「図書」誌上での好評連載を中心に編む
-
-
『ぼくがきみを殺すまで』(あさのあつこ)_書評という名の読書感想文
『ぼくがきみを殺すまで』あさの あつこ 朝日文庫 2021年3月30日第1刷 ベル
-
-
『ヒポクラテスの悔恨』(中山七里)_書評という名の読書感想文
『ヒポクラテスの悔恨』中山 七里 祥伝社文庫 2023年6月20日初版第1刷発行
-
-
『風葬』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文
『風葬』桜木 紫乃 文春文庫 2016年12月10日第一刷 釧路で書道教室を営む夏紀は、認知症の母
-
-
『憤死』(綿矢りさ)_書評という名の読書感想文
『憤死』綿矢 りさ 河出文庫 2015年3月20日初版 「憤死」 この短編は、文字通り「憤死
-
-
『図書準備室』(田中慎弥)_書評という名の読書感想文
『図書準備室』 田中 慎弥 新潮社 2007年1月30日発行 田中慎弥は変な人ではありません。芥
-
-
『風味絶佳』(山田詠美)_書評という名の読書感想文
『風味絶佳』山田 詠美 文芸春秋 2008年5月10日第一刷 70歳の今も真っ赤なカマロを走ら
-
-
『BUTTER』(柚木麻子)_梶井真奈子、通称カジマナという女
『BUTTER』柚木 麻子 新潮文庫 2020年2月1日発行 木嶋佳苗事件から8年
-
-
『ボラード病』(吉村萬壱)_書評という名の読書感想文
『ボラード病』吉村 萬壱 文春文庫 2017年2月10日第一刷 B県海塚市は、過去の災厄から蘇りつ
-
-
『モナドの領域』(筒井康隆)_書評という名の読書感想文
『モナドの領域』筒井 康隆 新潮文庫 2023年1月1日発行 「わが最高傑作 にし