『ある一日』(いしいしんじ)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/13
『ある一日』(いしいしんじ), いしいしんじ, 作家別(あ行), 書評(あ行)
『ある一日』いしい しんじ 新潮文庫 2014年8月1日発行
「予定日まで来たというのは、お祝い事や」。にぎやかな錦市場のアーケードを、慎二と園子は、お祝いの夕食にと、はもを探して歩いた。五年前には、五ヶ月でお腹の赤ちゃんの心音が聞こえなくなったことがある。今回は、十ヶ月をかけて隆起する火山のようにふくらんでいった園子のお腹。慎二と迎えたその瞬間、園子に大波が打ち寄せた - 。新たな「いのち」の誕生。その奇蹟を描く物語。(新潮文庫より)
出産予定日の当日、園子は夫の慎二に付き添われて産院へ行くも、院長からはまだ二、三週間はかかるだろうと言われます。で、次に二人は寺町のアーケードを歩き、三条通りとの交差点の少し手前の老舗ギャラリーに入って猫の絵などを鑑賞します。
5本3,000円のまつたけを買い、三条木屋町の路地にある眼科医に妊婦にありがちなかすみ目を診てもらおうと立ち寄るのですが、この時医者は不在で、二人は待合室にある水槽で揺れるほの白い紐のような「うなぎのシラス」を目にします。
受付の女性はそれが西マリアナ海嶺で生まれ四千キロの旅をしてきた絶滅危惧種で、舞鶴にある京大の水産試験場から送られてきたのだと言います。うなぎはオスメスの区別がつかない、途中でオスとメスとが入れ替わってしまう、そんな生き物なんだと言います。
このあと二人は錦小路を西へ西へと歩き、大ぶりの「はも」を買います。はももまたオスメスが安定しない生き物で、つまりは人間の胎児も同様、うなぎやはものシラスのようにはじめはほの白い一本の紐である - 話はそんなふうにして連なって行きます。
「卵から孵ったら、透明な葉っぱみたいな『レプトセファルス』ていうものになるんやけど、しばらく成長してからでないと、これがうなぎになるかうつぼになるんか、うみへびか、それともはもなんか、種の判別がつかへんのや」
慎二はことのほか海棲生物に詳しい人物で、これとは別に十九世紀後半のロシアの作家が書いた「かき」という短い小説の話であったり、昔イギリスの科学界に次々と報告された「かえるが岩の中で長年生き延びる」といった話などが折々に語られます。
彼は学生時代京都でひとり暮らしをしていたのですが、そのころノートに書き写していたのはこのような話ばかりだったのです。自然科学関連の書物をあつかう古書店に通ううち、常連だった眼科医とも立ち話するようになったというわけです。
妻の出産を録した話であるのに、合間合間に、まるで異なった趣きの話が語られてはまた元へ戻って行きます。それこそがいしいしんじの世界観なのだと - わかる人にはわかるし、わからない人にとってはまるで予測のつかない変人のようでもあります。
でも、いしいしんじとはそういう人なのですからしょうがない。普通の人よりかはちょっとばかし頭の構造が複雑で、ひとつのことを考えると続けざまにあれやこれやが思い起こされて、並みはずれて収まりが付かずにそうとしか書けない人なのですから。
その多くは外国での話 - 主に慎二の記憶、時に慎二と園子の思い出などが、二人が暮らす京都の風景に挟まるようにして登場してきては空中を漂うみたいに、まるでひとり言のようにして語られます。
(先に書いた)グァム島近くの西マリアナ海嶺で受精したばかりのうなぎの卵の採集に史上初めて成功した話であったり、あるいは、三条大橋のたもとから石段伝いに河原へ降りコンクリートの川岸を歩くと、慎二には決まって思い出すことがあります。
何かといえば、1987年のニューヨークはマンハッタン・タイムズスクエアでのこと。知り合いの韓国人女性と二人してタクシーに乗り、思いもよらずリンカーン・トンネルへ行き着いたときのやり場のなさであるとか、
神奈川県の港町に住んでいたときの箱網漁の漁師にもらったチマキボラの貝殻や、埠頭に面して建つ日本家屋に訪ねてきたスペイン生まれの友人のことや、イタリア人や日本人のことであったり。
二人がまつたけとはもを買って二条大橋に来ると、大きくなったうなぎがひそむという鴨川の飛び石の上で、女性がヴァイオリンを弾いています。(この状景もよくよく考えると変ですが)その様子を見て園子は、飛び石の上にうなぎが立っているような気がします。
そんなことがあった後、家に戻った二人は鍋にしてまつたけとはもを心ゆくまで堪能します。園子が長いトイレを済ませ庭に面した外廊をゆるゆるとした足どりで戻ってくると、「なんだか、おなか痛くなってきたんだけど、ひょっとして、そうかな」と言います。
そう、これからが本番なのです。レプトセファルスがそうではなくなって、確かな「いきもの」としてこの世に登場するまでには、まだもう少しの時間がかかります。
※ この小説は、第29回織田作之助賞受賞作品です。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆いしい しんじ
1966年大阪府大阪市生まれ。
京都大学文学部仏文科卒業。
作品 「アムステルダムの犬」「東京夜話」「トリツカレ男」「麦ふみクーツェ」「プラネタリウムのふたご」「ポーの話」「みずうみ」「ぶらんこ乗り」「四とそれ以上の国」など
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