『虫娘』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『虫娘』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(ま行)

『虫娘』井上 荒野 小学館文庫 2017年2月12日初版

四月の雪の日。あの夜、シェアハウスで開かれたパーティーで、一体何があったのか? 「樅木照はもう死んでいた」という衝撃的な一行からこの物語は始まる。しかも死んだはずの照の意識は今もなお空中を、住人たちの頭上を、「自由」に浮遊している。悪意と嫉妬、自由と不自由 - 小さな染みがじわじわ広がり、住人たちは少しずつ侵されていく。《みんなが照を嫉(ねた)んでいたにちがいない。みんな不自由だったが、照は自由だった。・・・・俺も彼女が嫉ましかった。でも、俺は殺していない。じゃあ、誰だ? 》 著者の新境地をひらくミステリ&恋愛小説の傑作。(小学館文庫)

何かを好きになった人は不自由で、弱い。対象は、人でも動物でも、場所でも同じだ。何かに心を奪われた人は、自由も奪われる。(中略)

反対に、何にも心を奪われていない人は無敵だ。だれかを前にして、緊張したり、思いもしないことを口走ったり、黙り込んだりせず、対等でいられるか、見下すことすらできる。それがなくなったらどうしようと不安におびえることはない。心を奪われない、執着しない、関心を持たない。そうできる人は無敵だし、どこまでも自由だ。(角田光代の解説より)

樅木照(もみのきひかる)は、そんな女性として登場します。登場したとき彼女は既に死んでいるのですが、死んでなお、シェアハウスに暮らす住人たちや彼らに関係する人の間を彷徨い、思い思いの言葉を投げかけたりします。

かつて男と女の関係にあった曳田揚一郎(シェアハウスを管理する不動産屋。37歳)に言わせると、照はこんなふうでもあります。

一緒にいても照はそこにいなかった。心ここにあらず。いや、それとも少し違って、照は話しかければちゃんと答えたし、笑い返したし、ベッドの上ではむしろ旺盛に反応したが、いつでも薄紙一枚隔てているような、見えない眼鏡を通して彼女を見ているような印象があった。樅木照の顔はどんなふうだったかと、彼女と会っていないとき、揚一郎はよく考えていた。今でも確信をもって思い出すことができない。

照は、何かを隠す意志も能力も持ち合わせてはいなかった。虫みたいな女だったのだ。(中略)猫とか猿とかいうよりはやっぱり虫だと揚一郎は考える。猫や猿よりもずっと取りつく島がなくて、ある意味で強靭な女だった - あっけなく死ぬその瞬間までは、ということに違いないが - という感じがするのだ。
・・・・・・・・・
樅木照が死んだとき、シェアハウスには(照以外に)大部屋俳優をしている妹尾真人、レストランシェフの桜井竜二、銀行員の鹿島葉子、ライターをしている碇みゆきの4人がいます。生きているときの照は主にヌードモデルが仕事で、時に売春をしたりします。

小説は、(照がというより)照の持つ「自由」な空気や「奔放さ」とは反対に、残る4人の「不自由」な様子とその揚句やがて訪れる、ある悲劇的な顛末を描き出そうとしています。

彼らは「シェアハウス」という響きに相応しい学生や若者ではありません。家賃が安いからであるとか、憧れてそこにいるわけではないのです。では、どんな理由があって彼らはそこにいるのか? そこを離れず、止まっているのか。

そのわからなさが不気味で、それと照との間にどんな関係があり、彼らが照をどう思い、どんなふうに感じていたのか。それを考えさせられることになります。

※鹿島葉子の場合
銀行で働く彼女の預金残高は、現在五百二万六千八十円になっています。とうとう五百万円を越えた - しかし、越えてしまうと葉子は、自分の目標は五百万ではなくて六百七十二万だったのだと気づきます。

それは隣県の信用金庫で去年、葉子と同い年の女子社員が横領した額なのでした。教えられて葉子は彼女の写真を見るのですが、そこにはどうということのない女が写っています。

美しくもない、個性的でもない、自分と同じような女。葉子と違う点は彼女には恋人がいて、その男のために六百七十二万円を騙し取ったということです。48歳、妻子あり、競輪狂いの、はげでもっさりしていて、およそ女を惹きつけるところなど欠片もない男です。

そんな男に彼女はくるったのです。いったいどうしてなんだろうと葉子は思います。どうしてそんな出来事が、私と同じような女の身の上に起きえたのだろうと。

事件のことを葉子が知ったのは去年の春のことです。そのあとすぐに、樅木照がハウスの新しい入居人としてやって来ます。だから、葉子は照のせいのような気がしています。貢ぐ男もいないのに、自分が架空の取引を操作するようになったのは。それにもう一つ、もちろんあのことについても・・・・

この本を読んでみてください係数 80/100

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「潤一」「夜をぶっとばせ」「そこへ行くな」「ほろびぬ姫」「もう切るわ」「グラジオラスの耳」「切羽へ」「夜を着る」「誰かの木琴」「雉猫心中」「結婚」「赤へ」他多数

関連記事

『モナドの領域』(筒井康隆)_書評という名の読書感想文

『モナドの領域』筒井 康隆 新潮文庫 2023年1月1日発行 「わが最高傑作 にし

記事を読む

『きみのためのバラ』(池澤夏樹)_書評という名の読書感想文

『きみのためのバラ』池澤 夏樹 新潮文庫 2010年9月1日発行 予約ミスで足止めされた空港の空白

記事を読む

『逢魔が時に会いましょう』(荻原浩)_書評という名の読書感想文

『逢魔が時に会いましょう』荻原 浩 集英社文庫 2018年11月7日第2刷 大学4

記事を読む

『窓の魚』(西加奈子)_書評という名の読書感想文

『窓の魚』西 加奈子 新潮文庫 2011年1月1日発行 温泉宿で一夜をすごす、2組の恋人たち。

記事を読む

『終わりなき夜に生れつく』(恩田陸)_書評という名の読書感想文

『終わりなき夜に生れつく』恩田 陸 文春文庫 2020年1月10日第1刷 はじめに、

記事を読む

『ほどけるとける』(大島真寿美)_彼女がまだ何者でもない頃の話

『ほどけるとける』大島 真寿美 角川文庫 2019年12月25日初版 どうにも先が

記事を読む

『満月と近鉄』(前野ひろみち)_書評という名の読書感想文

『満月と近鉄』前野 ひろみち 角川文庫 2020年5月25日初版 小説家を志して実

記事を読む

『どろにやいと』(戌井昭人)_書評という名の読書感想文

『どろにやいと』戌井 昭人 講談社 2014年8月25日第一刷 ひとたび足を踏み入れれば、もう

記事を読む

『オロロ畑でつかまえて』(荻原浩)_書評という名の読書感想文

『オロロ畑でつかまえて』 荻原 浩 集英社 1998年1月10日第一刷 萩原浩の代表作と言えば、

記事を読む

『また、桜の国で』(須賀しのぶ)_これが現役高校生が選んだ直木賞だ!

『また、桜の国で』須賀 しのぶ 祥伝社文庫 2019年12月20日初版 1938年

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『あいにくあんたのためじゃない』(柚木麻子)_書評という名の読書感想文

『あいにくあんたのためじゃない』柚木 麻子 新潮社 2024年3月2

『執着者』(櫛木理宇)_書評という名の読書感想文

『執着者』櫛木 理宇 創元推理文庫 2024年1月12日 初版 

『オーブランの少女』(深緑野分)_書評という名の読書感想文

『オーブランの少女』深緑 野分 創元推理文庫 2019年6月21日

『揺籠のアディポクル』(市川憂人)_書評という名の読書感想文

『揺籠のアディポクル』市川 憂人 講談社文庫 2024年3月15日

『海神 (わだつみ)』(染井為人)_書評という名の読書感想文

『海神 (わだつみ)』染井 為人 光文社文庫 2024年2月20日

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑