『水声』(川上弘美)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/11
『水声』(川上弘美), 作家別(か行), 川上弘美, 書評(さ行)
『水声』川上 弘美 文春文庫 2017年7月10日第一刷
1996年、わたしと弟の陵はこの家に二人で戻って来た。ママが死んだ部屋と、手をふれてはならないと決めて南京錠をかけた部屋のある古い家に。夢に現われたママに、わたしは呼びかける。「ママはどうしてパパと暮らしていたの」- 愛と人生の最も謎めいた部分に迫る静謐な長編。読売文学賞受賞作。(文春文庫)
時は1969年。昭和44年の、ある夏の日からこの物語は始まります。小説は、幾つもの過去と現在をたえず行き来しながら進んでゆきます。これはある姉弟の物語であり、彼らにとって他にない唯一の存在、在りし日の〈ママ〉を語った物語でもあります。
ある姉弟がいます。姉は都(みやこ)、弟を陵(りょう)といいます。二人は1つ違いの、とても仲の良い姉弟です。それぞれにつつがなく成長し、やがて二人は家を出て一人暮らしを始めます。いくつか恋はするものの、二人して結婚までには至りません。
50歳と少しでママが癌で死んだあと、一人家に残った〈パパ〉はマンション暮らしを始めます。それから10年、無人のままで古くなった元いた家に、家族は再び移り住むようになります。その時都は39歳、陵は38歳になっています。
(印象的なシーン) ずいぶんと歳を取ったあと、二人は来し方を思い、陵がある出来事を振り返り、しみじみと語りかけるところ。
倒れている女の人は、人形みたいに見えた。手足がたよりなくて、あ、これはもうだめなんじゃないかと思った。怖かった。(中略)死そのものをあからさまに見たのは、その時が初めてだった。ママが死んだ時よりも、その女の人の死ははるかに生々しくそこにあった。
サリンという言葉を知ったのは後だったけれど、ひどく理不尽なものがやってきて女の人の時間を突然ぶったぎって行ったんだと、はっきり理解していた。
おれは、死を見たくなかった。少しでも早く死から逃れようと、会社に急いだ。ビルの清潔なエントランスを抜けていつものフロアに入ってしまえば、死など存在しないふりができるから。
あのころ、おれたちは死から遠かったね。おれが若かったからじゃなくて、なんだかおれたち全体が死を見ないようにしていた気がしない?
だけど、阪神の地震があったあとのサリンの事件は、おれを死に引き寄せてしまった。平原に埋まる地雷のように、死はそのへんにいくらでもあって、軽くでも踏んでしまえば、すぐさまおれを摑まえにきてしまうんだって、おれにはよくわかった。
「都」 陵は姉のことをそう呼びます。
ぴったりと陵の体に寄り添っているので、都には陵の顔が見えません。少し離れて、都は陵の目を、くちびるを、鼻のあたまを、じっと見つめます。
「陵」 弟に向かい、都はそう呼び返します。
からめていた指を、わたしたちは解き放った。互いの体を、さらに深く、もっと深く、さぐりあうために。
読み出すと、どこかしらあやし気な空気が漂っているのがわかります。二人はすでにただならぬ関係で、それを言えばママとパパ、他に登場する武治さんだってそうに違いなく、彼らは家族や身内の関係という枠組みをおしなべて逸脱し、それをそうとは思わず暮らしています。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。本名は山田弘美。
お茶の水女子大学理学部卒業。
作品 「神様」「溺レる」「蛇を踏む」「真鶴」「ざらざら」「センセイの鞄」「天頂より少し下って」「どこから行っても遠い町」他多数
関連記事
-
-
『事件』(大岡昇平)_書評という名の読書感想文
『事件』大岡 昇平 創元推理文庫 2017年11月24日初版 1961年夏、神奈川県の山林で刺殺体
-
-
『自由なサメと人間たちの夢』(渡辺優)_書評という名の読書感想文
『自由なサメと人間たちの夢』渡辺 優 集英社文庫 2019年1月25日第一刷 痛快
-
-
『前世は兎』(吉村萬壱)_書評という名の読書感想文
『前世は兎』吉村 萬壱 集英社 2018年10月30日第一刷 7年余りを雌兎として
-
-
『坂の途中の家』(角田光代)_書評という名の読書感想文
『坂の途中の家』角田 光代 朝日文庫 2018年12月30日第一刷 最愛の娘を殺し
-
-
『少女架刑 吉村昭自選初期短篇集Ⅰ』(吉村昭)_書評という名の読書感想文
『少女架刑 吉村昭自選初期短篇集Ⅰ』吉村 昭 中公文庫 2024年8月30日 5刷発行
-
-
『消滅世界』(村田沙耶香)_書評という名の読書感想文
『消滅世界』村田 沙耶香 河出文庫 2018年7月20日初版 世界大戦をきっかけに、人工授精が飛躍
-
-
『白いセーター』(今村夏子)_書評という名の読書感想文
『白いセーター』今村 夏子 文学ムック たべるのがおそい vol.3 2017年4月15日発行
-
-
『少女』(湊かなえ)_書評という名の読書感想文
『少女』湊 かなえ 双葉文庫 2012年2月19日第一刷 親友の自殺を目撃したことがあるという転校
-
-
『桃源』(黒川博行)_「な、勤ちゃん、刑事稼業は上司より相棒や」
『桃源』黒川 博行 集英社 2019年11月30日第1刷 沖縄の互助組織、模合 (
-
-
『空中庭園』(角田光代)_書評という名の読書感想文
『空中庭園』角田 光代 文春文庫 2005年7月10日第一刷 郊外のダンチで暮らす京橋家のモッ