『悪いものが、来ませんように』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『悪いものが、来ませんように』芦沢 央 角川文庫 2016年8月25日発行

大志の平らな胸に、紗英がゆっくりと体重を預けていく。ころりと寄り添うように転がり、余韻を味わうように天井を仰いで並んだ。時折、紗英が大志を見上げ、大志が紗英の頭を抱えるように撫でる。無声映画のような光景を、奈津子はガラスに額を張りつけて見続ける。

日曜の昼間、紗英と大志が過ごしているはずの時間に紗英の家に様子を見に来るのは、これが初めてではない。だが、こうしたシーンを目の当たりにしたことは一度もなかった。DVDを観ているか、昼寝をしているか、(中略)穏やかな日常を確認することで、二人の関係は問題ないのだと確認したかった。

いや - と奈津子は拳を握る。違う。そうじゃない。本当はこれこそが見たかったのだ。もう長いこと自分と貴雄の間にはなくなってしまった行為。紗英が、子どもは当分いらないと言えてしまうのはなぜなのか。実際に目にしてしまえばショックを受けるとわかっていながら、だからこそ見たかった。傷口に爪を立てて痛みを確認せずにいられないように。

- 仕事をしていれば、何か違ったのだろうか。子どもができなければ、貴雄と結婚しなければ。二人の会話に耳をすませながら、奈津子の脳裏に浮かんでいたのは、高校生の頃の紗英の、あどけないほどに全力の泣き顔だった。(前半の86ページ辺り)

以上は、人知れず奈津子が紗英の家にやって来て、小さな庭に忍び込み、カーテン越しに紗英と大志がするセックスを覗き見ているシーン - 。

交代勤務のため、彼女はこのあとすぐに家を出て行きます。(紗英は妹の鞠絵と同じ助産院で働いています)紗英が家を離れてしばらくすると、奈津子はその場から玄関へと向かい、逸る気持ちを押さえてチャイムのボタンを押します。

はい、という低い返事。奈津子は一歩後ずさりながら、「あ」 とかすれた声を漏らします。 『あの・・・・・・・紗英、今ちょうど仕事に出ちゃったんですけど』 - 長すぎる間のあと、大志は探るようにそう言います。

「そうなの? 何だ、買いすぎちゃったから、一緒にごはんにしようと思ったのに」 奈津子は目を伏せ、インターフォンのモニターに向かってビニール袋を掲げてみせます。

え、ああ、すみません。あ、とりあえず今開けますんで。大志のたじろぐ声音の後に、プツッと通話が途絶える音が続きます。

私は、何をしようとしているのだろう。奈津子は、しがみつくようにビニール袋の持ち手を握りしめます。

大志が家に帰らない。どこにいるのかわからない。紗英がそうと気づくのは、その日以降のことです。

助産院に勤める紗英は、不妊と夫の浮気に悩んでいた。彼女の唯一の拠り所は、子供の頃から最も近しい存在の奈津子だった。そして育児中の奈津子も、母や夫、社会となじめず、紗英を心の支えにしていた。そんな2人の関係が恐ろしい事件を呼ぶ。紗英の夫が他殺死体として発見されたのだ。「犯人」は逮捕されるが、それをきっかけに2人の運命は大きく変わっていく。最後まで読んだらもう一度読み返したくなる傑作心理サスペンス! (角川文庫)

さて、皆さん。問題はここからです。文庫の解説には、わざと 端折ってあったり、ぼやかして 書いているところがあります。

紗英にとって奈津子は、子供の頃から最も近しい存在だった、とあります。では、二人は一体どんな関係なのでしょう? 姉妹? 親友と呼べるほどの友達? それとも、何か事情があっての特別な関係なのでしょうか?  よーく、考えてみてください。

育児中の奈津子、とあります。奈津子が育児しているのは、「梨里」という名のまだ幼い「娘」です。普通「娘」とあれば、誰しもわが子、つまり奈津子が産んだ自分の子供だと思うはずです。しかし、本当にそれで間違いないのでしょうか? 今の奈津子の年齢を、よーく考えてみてください。どこかしら、おかしなことに気付きます。読み違えているような、何かを見落としているような感じがしてきます。

奈津子に他意はありません。彼女は、

この子のもとに、幸せばかりが待っていますように。
悪いものが、来ませんように。と、そればかりを祈っています。

この本を読んでみてください係数 80/100

◆芦沢 央
1984年東京都生まれ。
千葉大学文学部史学科卒業。

作品 「罪の余白」「今だけのあの子」「いつかの人質」「許されようとは思いません」など

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