『ママがやった』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
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『ママがやった』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(ま行)
『ママがやった』井上 荒野 文春文庫 2019年1月10日第一刷
「まさか本当に死ぬとは思わなかったの。びっくりしたわ」 79歳の母が72歳の父を殺した、との連絡に姉弟3人が駆け付けた。母手製の筍ご飯を食べながら、身勝手で女性が絶えなかった父の、死体処理の相談を始める - 男女とは、家族とは何か。ある家族の半世紀を視点人物を替えて描いた、愛を巡る8つの物語。(文春文庫)
物語の冒頭、十行余りを読んで改めて思いました。なるほど、だから私はこの人の書く小説が好きなんだと。第一章 「ママがやった」 のはじめには、ありふれた日常の、この上なく異常な出来事の様子が語られています。さらりと。あたかもあたりまえのようにして。
電話をかけたのは創太のほうからだった。
知らせたいことがあってかけたのだが、どういう言葉で伝えようかと迷っているうちに、こちらも電話しようと思っていたところだったのよ、と母親が言った。電話で話しにくいことだから来てほしい、と言われたとき、ちょっといやな予感はしたが、まさかこんなことになっているとは思いもしなかった。
理由を母親は語らなかった。方法についてはもう十分だと言いたくなるほど詳しく語った。酔いつぶれて寝ている父親の顔の上に、水で濡らしたタオルをかぶせて、その上に枕を置き、自分の全体重で押さえたのだという。そのやり方は、テレビドラマで観たのだそうだ。まあちょっとばたばたしたけど、すぐだったわねえ。まさか本当に死ぬとは思わなかったんだけど、死ぬものなのねえ。びっくりしたわと母親は、まったくびっくりしていない様子で言った。(P10)
創太が到着した時にはすでに姉二人 - 上が時子で、下が文子 - が揃っています。何があってこんなことになったのか。母親の百々子に対し、3人は理由を質そうとするのですが、「だから、テレビで観たんだって」 と言うだけで、要領を得ません。
「ぼけてるんじゃないのか」 「ぼけてないわよ」 と、これは創太と姉・時子の会話。
「ぼけてる気はしないけどねえ」 と言ったのは当の本人で、母親は言うなり、「あんたたち、お昼食べていくんでしょう」 と米を研ぎはじめたのでした。
※(ユーモラスでクールでアナーキー) 不条理極まるこの小説は、ここからが本番です!
第二章 「五、六回」 は、長女・時子の話。思慮深いが顔立ちは地味で歳よりも老けて見える彼女は独身で、実は何度もの中絶手術を繰り返し経験しています。
第三章 「ミック・ジャガーごっこ」 は、百々子が殺した夫・拓人の話。拓人は、百々子の夫にして夫に非ず。娘や息子の父にして父に非ず。生きることの全般に関して、まるで責任感というものがありません。ただの不埒な男ではありますが、但し女性にはモテます。
第四章 「コネティカットの分譲霊園」 は、次女・文子の娘・さくらの話。そのとき、さくらは19歳。相手の良朗は25歳。結婚すると決まって、お互いの両親が初めて会って挨拶をしたその日の夜のことです。なぜか、さくらは行方不明になります。
第五章 「恥」 は、百々子27歳の頃の話。その頃百々子は教師をしていました。澄江は彼女の授業を受ける生徒の中の一人で、特別親しいという関係ではなかったのです。なのに、澄江は当時20歳の男と交際し、それが学校に知れ停学処分になると、百々子の家を訪ねてきたのでした。男と会うために、澄江は金を貸してほしいと頼みます。
第六章 「はやくうちに帰りたい」 は、青春の頃の創太の話。当時中学生だった彼は、ある出来事をきっかけに、伊藤織愛という同級生と話すようになります。織愛は 「ひょろりと痩せていて、でもおっぱいは案外大きい」 女子でした。彼女は、”バラの家” に住んでいます。
第七章 「自転車」- 50年以上も前の記憶。または、百々子の諦観。
最終、第八章 「縦覧謝絶」- ここでは(はたしてそれが「二章から七章までを踏まえて」かどうかはわかりませんが) 第一章の 「ママがやった」 ことに対する総意として一つの決断が下され、拓人を車に乗せ、家族は山へ向かいます。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。
作品 「潤一」「虫娘」「ほろびぬ姫」「グラジオラスの耳」「切羽へ」「つやのよる」「誰かの木琴」「雉猫心中」「結婚」「赤へ」「その話は今日はやめておきましょう」他多数
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