『私の恋人』(上田岳弘)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/10 『私の恋人』(上田岳弘), 上田岳弘, 作家別(あ行), 書評(わ行)

『私の恋人』上田 岳弘 新潮文庫 2018年2月1日発行

一人目は恐るべき正確さで世界の未来図を洞窟の壁に刻んだクロマニョン人。二人目は大戦中、収容所で絶命したユダヤ人。いずれも理想の女性を胸に抱きつつ34年で終えた生を引き継いで、平成日本を生きる三人目の私、井上由祐は35歳を過ぎた今、美貌のキャロライン・ホプキンスに出会う。この女が愛おしい私の恋人なのだろうか。10万年の時空を超えて動き出す空前の恋物語。三島賞受賞作。(新潮文庫)

タスマニアは、彼らの人間の肖像にもかかわらず、完全に50年の間に、ヨーロッパからの移民によって繰り広げ絶滅の戦争で消滅するので流された。- G・H・ウェルズ

彼女の呟きをGoogleが翻訳したものらしかったが、うまく訳せているとは思えない。『宇宙戦争』 の第一章に出てくる一節なのだ、とキャロライン・ホプキンスに教えられて合点がいった。ヨーロッパ諸国の侵略によって、亜人類であるところのタスマニア人は滅ぼされた。作者はこの件を引き合いに出し、地球外から圧倒的に高度な文明を持つ侵略者が入植すれば、今度はこちらが滅ぼされることもあり得る、という物語を書いたのだ。

ともあれ、キャロライン・ホプキンスがタスマニア人について詳しく語った本旨は、彼女が反捕鯨運動に携わる動機を井上由祐に伝えることにあった。キャロライン・ホプキンスの所属する団体においては、鯨を人類の仲間だとみなしている。

要は、キャロライン・ホプキンスは今も 「行き止まりの人類の旅」 の途上にあり、反捕鯨活動は 「ヨウヘイ」 の遺志に添った最新のムーブメントなのだということらしい。キャロライン・ホプキンスの話のことごとくに、高橋陽平が絡んでくる。彼女が高橋陽平の考えを自分のことのように語るのを聞く度に、井上由祐の胸には苦い痛みが走るのだ。

足かけ10万年間妄想し続けた私の恋人の心に、高橋陽平がどっかと居座っている。そこから退かせることはもうできないのではないか、と悲観的な気持ちにもなる。(P73 ~ 76)

東京で働く平凡なサラリーマン・井上由祐が、類い稀なる美貌と教養の持ち主である、オーストラリア人のキャロライン・ホプキンスに恋をした。

それはそれで違いないのですが、但し、そんじょそこらにざらにある恋愛とはまるで違う話が書いてあります。

井上由祐は、実は 三人目の 「私」 で、彼には前世と前前世、既に二人の 「私」 を生きた経験 (または記憶) があります。

一人は、旧石器時代を生きるクロマニョン人の 「私」 として。二人目が、ナチス時代の強制収容所で息絶えたユダヤ人、ハインリヒ・ケプラーとして。そして現代の東京で働く日本人の 「私」- その 「私」 こそが、井上由祐だというのです。

10万年の時を超えて転生し、記憶を共有しながら、全人類の歴史を乗り継いできた結果、三人目の 「私」 として今いるのが由祐で、彼は先の二人と比べ如何にも凡庸な人物ではありますが、二人が激しく憧憬しながらも叶えられなかったあることを成そうとしています。

それは、三人にとっての運命の女性、たまらなく可愛い 「私の恋人」 を得る、ということでした。

やがて井上由祐は、キャロライン・ホプキンスと巡り合うこととなります。彼女と話すうち、次第次第に、井上由祐は思うようになります。彼女の来し方を詳しく知ると、それは確信に近いものになり、足かけ10万年間妄想し続けた人物は、彼女ではないのかと。キャロライン・ホプキンスこそが、探し求めた 「私の恋人」 ではないのだろうかと -

※確かに彼女は金曜日になると決まって由祐の部屋にやって来ます。それはまぎれもなく彼女の意思で、ベッドを共にもするのですが、存外彼女は素っ気がありません。彼女の心には未だ高橋陽平が居座っており、由祐は、なかなかに彼に取って代われずにいます。

※※芥川賞受賞作を読む前に一冊と思い、書店で見つけて買いました。上田岳弘という人はこんな小説を書くんだと、その想像力と創造力に唖然となりました。ただ単に読むのではなく、何が書いてあるのかをじっくり考える必要があります。特に、キャロライン・ホプキンスとは何者なのか、誰を、何を想定して描かれているかを考えなければなりません。

この本を読んでみてください係数  80/100

◆上田 岳弘
1979年兵庫県明石市生まれ。
早稲田大学法学部卒業。

作品 「太陽・惑星」「異郷の友人」「塔と重力」「ニムロッド」など

関連記事

『少女奇譚/あたしたちは無敵』(朝倉かすみ)_朝倉かすみが描く少女の “リアル”

『少女奇譚/あたしたちは無敵』朝倉 かすみ 角川文庫 2019年10月25日初版

記事を読む

『R.S.ヴィラセリョール』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

『R.S.ヴィラセリョール』乙川 優三郎 新潮社 2017年3月30日発行 レイ・市東・ヴィラセリ

記事を読む

『星に願いを、そして手を。』(青羽悠)_書評という名の読書感想文

『星に願いを、そして手を。』青羽 悠 集英社文庫 2019年2月25日第一刷 大人

記事を読む

『晩夏 少年短篇集』(井上靖)_書評という名の読書感想文

『晩夏 少年短篇集』井上 靖 中公文庫 2020年12月25日初版 たわいない遊び

記事を読む

『世にも奇妙な君物語』(朝井リョウ)_書評という名の読書感想文

『世にも奇妙な君物語』朝井 リョウ 講談社文庫 2018年11月15日第一刷 彼は子

記事を読む

『ブラフマンの埋葬』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『ブラフマンの埋葬』小川 洋子 講談社文庫 2017年10月16日第8刷 読めば読

記事を読む

『地下鉄に乗って〈新装版〉』(浅田次郎)_書評という名の読書感想文

『地下鉄に乗って〈新装版〉』浅田 次郎 講談社文庫 2020年10月15日第1刷 浅

記事を読む

『罪の轍』(奥田英朗)_書評という名の読書感想文

『罪の轍』奥田 英朗 新潮社 2019年8月20日発行 奥田英朗の新刊 『罪の轍』

記事を読む

『ざんねんなスパイ』(一條次郎)_書評という名の読書感想文

『ざんねんなスパイ』一條 次郎 新潮文庫 2021年8月1日発行 『レプリカたちの

記事を読む

『北斗/ある殺人者の回心』(石田衣良)_書評という名の読書感想文

『北斗/ある殺人者の回心』石田 衣良 集英社 2012年10月30日第一刷 著者が一度は書き

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『越境刑事』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『越境刑事』中山 七里 PHP文芸文庫 2025年10月22日 第1

『八月の母』(早見和真)_書評という名の読書感想文

『八月の母』早見 和真 角川文庫 2025年6月25日 初版発行

『おまえレベルの話はしてない』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『おまえレベルの話はしてない』芦沢 央 河出書房新社 2025年9月

『絶縁病棟』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『絶縁病棟』垣谷 美雨 小学館文庫 2025年10月11日 初版第1

『木挽町のあだ討ち』(永井紗耶子)_書評という名の読書感想文

『木挽町のあだ討ち』永井 紗耶子 新潮文庫 2025年10月1日 発

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑