『ヒポクラテスの憂鬱』(中山七里)_書評という名の読書感想文
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『ヒポクラテスの憂鬱』(中山七里), 中山七里, 作家別(な行), 書評(は行)
『ヒポクラテスの憂鬱』中山 七里 祥伝社文庫 2019年6月20日初版第1刷
全ての死には理由がある
埼玉県警のホームページの掲示板に 〈修正者(コレクター)〉 を名乗る書き込みがあった。今後、県下で起きる自然死・事故死に企みがないかどうか見極めろという。同日のアイドルの転落死にも言及したため、県警の古手川と浦和医大法医学教室の助教・真琴は再捜査と遺体の解剖に臨んだ。結果、炙り出されたアイドルの秘密と司法解剖制度の脆弱さとは? シリーズ第二弾、待望の文庫化! (祥伝社文庫)
目次
一 堕ちる
二 熱中 (のぼ) せる
遺体の向きを仰向けに戻した後、光崎が執刀を宣言する。
「では始める。遺体は三歳女児。体表面に外傷なし。死後経過時間に比較して腐敗進行はやや早い。検死報告では熱射病による多臓器不全。よって急死の所見と重複する可能性が大である」
「最初に開頭を行う。ドリルを」
光崎が指摘したように異常環境下での死亡は特異的所見に乏しい。だが死因が熱射病の場合はしばしば脳浮腫や血液濃縮が顕著となる。開頭するのはそれを確認するためだ。
光崎の手が頭蓋を骨切していく。元々頭蓋が軟質なせいもあるが、光崎の術式は骨切のような作業でも静謐さを保っている。電動ノコギリによる骨切は手作業なので、切開部分や力の強弱によって音が異なってくる。しかし光崎の手にかかれば電動ノコギリの音は常に一定で、しかも澱みがない。
やがて頭蓋が取り外され、硬膜に覆われた脳髄が姿を現した。硬膜は脳髄の保護膜なので相応に頑丈なはずなのだが、光崎はこれも容易く剥離させていく。
「次は開腹。メス」
キャシーから手渡されたメスを持つと、その指先はいよいよ芸術家の動きを発揮する。キャンバスに線を引くように切っ先を滑らせて、Y字を描く。切断面から血の玉がなかなか浮かんでこないのは、無駄な力を使わず切開しているからだ。
皮膚切開と続く肋骨切除。途端に饐えた異臭が拡がるが、不思議に成人のそれよりも淡く甘い気がするのは錯覚だろうか。
光崎のメスは最初からそこと定めていたかのように胃を目指す。三歳という年齢を考慮しても容量の小さそうな胃だった。
胃の内部には、見事なまでに何も残っていなかった。消化され尽くした後なのか内容物と呼べるようなものは見当たらない。
だがピンセットに持ち替えた光崎の指は、そこから異様な物体を摘み上げた。
黄土色をした薄い欠片だった。よくよく覗き込むと同じ形状の欠片が数枚、胃壁に付着している。
光崎はその欠片を蛍光灯に翳してしげしげ観察した後、ステンレス皿に置いた。
次に光崎は腸壁も切開してみた。だが腸の中にも先刻の欠片が点在するだけで、他の固形物は見当たらない。
「閉腹する。念のため組織の一部と血液を採取」
これで終わりなのか - 質問したいことが山ほど浮かんだ時、今まで沈黙を守っていた古手川が口を開いた。
「先生。その欠片、いったい何なんですか」
真琴も同じ疑問を抱いていた。未消化の部分から推しても、とても一般的な内容物とは思えなかった。
光崎は面倒臭そうに古手川を一瞥して言った。
「紙だ」 (P73 ~ 76/抜粋して掲載)
わずか三歳の少女が亡くなったのは、母親が異状を発見した時から一度も意識を回復しないまま救急搬送される途中でのことでした。死因は、熱中症。(普通なら) 死体解剖などするはずがありません。
三 焼ける
四 停まる
五 吊るす
六 暴く
この本を読んでみてください係数 85/100
◆中山 七里
1961年岐阜県生まれ。
花園大学文学部国文科卒業。
作品 「切り裂きジャックの告白」「七色の毒」「さよならドビュッシー」「闘う君の唄を」「嗤う淑女」「魔女は甦る」「連続殺人鬼カエル男」「護られなかった者たちへ」他多数
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