『杳子・妻隠』(古井由吉)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2020/02/29
『杳子・妻隠』(古井由吉), 作家別(は行), 古井由吉, 書評(や行)
『杳子・妻隠』古井 由吉 新潮文庫 1979年12月25日発行
古井由吉という名前は、昔から知っています。書棚を探せば、たぶんこの小説の他にも何冊かの単行本があるはずです。でも、すっかり忘れていました。
何せ、古井由吉が『杳子』という小説で芥川賞を受賞したのは昭和45年、1970年の下半期のことです。当時の選者の中には川端康成を始め、石川達三、大岡昇平、井上靖、石川淳といった最早伝説上の人物になりつつあるような作家が名を連ねています。
新潮文庫が出した『ピース又吉が愛してやまない20冊』の中には、そんな「昔」の本がたくさん含まれています。もちろん、彼が敬愛する太宰治の本も2冊ばかりしっかり入っています。そんな中、タイトルの響きの懐かしさについ手に取ったのがこの本でした。
『杳子』に限ったことではありませんが、古井由吉の小説は万人受けするようなものではありません。文章は知的で端正、申し分ないのですが、その分「娯楽気分」は削がれます。読む側も襟を正さなくてはなりません。そこは芥川賞作品、一筋縄ではいかないのです。
適確な形容を駆使し、巧みな筆致で語られるのは、あくまで登場人物の心の内です。例えば、山間の谷底で初めて「彼」が杳子の姿を見つける場面の描写。
杳子は深い谷底に一人で坐っています。
疲れた軀を運んでひとりで深い谷底を歩いていると、まわりの岩がさまざまな人の姿を封じこめているように見えてくることがある。そして疲れがひどくなるにつれて、その姿が岩の呪縛を解いて内側からなまなましく顕われかかる。
地にひれ伏す男、子を抱いて悶える女、正坐する老婆、そんな姿がおぼろげに浮かんでくるのを、あの時もたしか彼は感じながら歩いていた。その中に杳子の姿は紛れていたのだろうか。それほどまでに、杳子の軀には精気が乏しかったのだろうか。
「彼」と杳子は同じ大学生で、山での出逢いをきっかけに交際が始まります。『杳子』という小説は恋愛小説であって恋愛小説でない、特異な「男女の恋の物語」です。後々2人は身体の関係を結ぶことにもなりますが、絆が強まるかと言えばそんな風でもありません。
ここが重要なところですが、杳子という女性は、一般的な目線で見ると明らかに精神を病んでいます。少女のように固く閉じこもるかと思えば、突然成熟した女の素顔を顕したりします。
しかし、それが果たして病んでいるという状態なのかどうか、やや特殊に映りはするものの、杳子が世界と折り合いをつけるために一時迷っているだけのことではないかと思うが故に「彼」は杳子に惹かれ、杳子の中に「彼」自身を見出します。
杳子ほどではないにせよ「彼」もまた心に闇を抱える青年で、だからこそ、「彼」は杳子を見過ごすことができません。近づいたかと思えば、するりと体をかわされる。機嫌が良いとは思えないのに、明日も電話をくれとせがまれる。互いを必要としていることは痛いほどわかるのに、「彼」にとって、杳子はどこまでも捉えどころがありません。
※タイトルは『杳子・妻隠』とひと続きになっていますが、「杳子」と「妻隠」は2つの短編、別々の物語です。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆古井 由吉
1937年東京生まれ。
東京大学文学部独文科卒業。同大学院人文科学研究科独語独文学専攻修士課程修了。
作品 「栖」「槿」「中山坂」「仮往生伝試文」「白髪の唄」他多数
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