『完璧な病室』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『完璧な病室』小川 洋子 中公文庫 2023年2月25日改版発行

こうして小川洋子は出現した 
みずみずしい輝きを放つ最初期の四作品に著者あとがきを新たに収録

病に冒された弟と姉との時間を描く表題作、海燕新人文学賞受賞のデビュー作 「揚羽蝶が壊れる時」、第二作品集収録の 「冷めない紅茶」 「ダイヴィング・プール」。みずみずしい輝きを放ち、作家小川洋子の出現を告げる最初期の四編。著者あとがきを新たに加え、カバーデザインをリニューアルした新装版。(中公文庫)

あとがきより (二〇二二年の終わりに、とあります)

内田百閒の短編小説 『件』 (くだん) を読み返すたび、五十年ほど昔、祖母と二人でサーカスを観に行ったことを思い出す。

サーカスは岡山駅から少し西に行った、操車場跡地にテントを張っていた。線路の名残りがとぎれとぎれにむき出しになっているだけで、あとはただ、むやみに広々としているばかりだった。そこまでどうやってたどり着いたかも、またぼんやりしている。絶対にバスや路面電車を使ったはずはない。祖母は三半規管が大変に弱く、どんな乗り物であれ五分と我慢できなかったからだ。
とにかく私たちは、視線のずっと向こうまで切れ目のない、埃っぽい広場に、二人、立っていた。

百閒の小説によれば、件とはからだが牛で顔丈人間の浅ましい化物である。主人公は気づくと、その化物に生まれ変わっている。全身がびっしょり濡れて尻尾から雫が垂れているほどだから、生まれて間がないのだろう。件もやはり、母親のお腹にいる間は、羊水に浸かっているらしい。

厄介なのは、件は生まれて三日の間に、人間の言葉で未来を予言し、死んでゆくという点にある。主人公は三日で死ぬことにこだわりはないが、何をどう予言していいか見当もつかずに困惑する。そうこうしているうち、件の予言を聴こうとしてどこからともなく、人間の群れが近づいてくる。

件の予言を待つ人々もまたじりじりしていた。件が一口水を飲んだだけで動揺が走った。一言も聴き逃すまいと耳を澄ましているのに、一向に何の予言もされず、苛立ちと不信感が湧き上がろうとしていた。

待ちくたびれて苛立った人々は、だんだん予言が恐ろしくなってくる。
・・・・・・・何も云わないうちに、早くあの件を殺してしまえ
群衆の中のその声は、主人公の耳にくっきり届いてくる。
・・・・・・・その声はたしかに私の生み遺した伜の声に違いない
息子の姿を探して伸びあがった件に、群衆はおののき、四方八方に逃げ去っていく。黄色い月が照る中、件は一人、取り残される。

中から、内田百閒の小説 『件』 のあらすじを紹介している部分のみを書き出しました。

祖母と二人でサーカスを観に行ったまではよかったのですが、桟敷でショーが始まるのを待つ間に、著者はテントの中に満ちた獣のにおいで気持ち悪くなります。我慢するのが無理になり、結局二人はサーカスを観ずしてテントを抜け出したのでした。

外はいつの間にか、風が強くなっています。祖母の体は極限まで腰が曲がってもうほとんど四つ這いになりそうなほどでした。その時、幼い少女の著者は広場のずっと向こう、空と畑の境目から、黄色い雲のような、煙のようなものが立ち上がっているのを目にします。
「おばあちゃん、あれ、なあに」 と聞くと、祖母はそちらを見もしないで、
「黄砂じゃ」 と答えたのでした。

黄色いものは私たちの頭上で渦を巻き、地面の砂を巻き上げ、二人の体を覆い尽くした。
おばあちゃん
呼んでみたってどうにもならないと分かっていながら、私はつぶやいた。祖母の体はじっとり濡れていた。温かい湿り気が私の掌から伝わってきた。更に強く体を密着させると、獣のにおいもまた濃くなって、黄色いものの中を漂っていた。祖母の背骨は曲線を描き、ちょうど私の腹から胸へと続く窪みにおさまっていた。
私たちは件になったのだ、私は件の祖母を産んだのだ、と分った。

小川洋子はこのエピソードで何が伝えたかったのか。答えはこの続き、「あとがき」 の最後に書いてあります。そしてそれを踏まえて、表題作 「完璧な病室」 一話でも読んでみてはもらえないかと。端からあった彼女の、凡人にはとうてい及ぶはずのない感性に、きっと驚くに違いありません。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆小川 洋子
1962年岡山県岡山市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「揚羽蝶が壊れる時」「妊娠カレンダー」「博士の愛した数式」「沈黙博物館」「貴婦人Aの蘇生」「ことり」「ホテル・アイリス」「ブラフマンの埋葬」「ミーナの行進」他多数

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