『つやのよる』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『つやのよる』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(た行)

『つやのよる』井上 荒野 新潮文庫 2012年12月1日発行

男ぐるいの女がひとり、死の床についている。その名は艶。夫・松生は、かつて妻子を捨て艶と出奔したのだった。艶の危篤を、彼女が関係した男たちへ告げずにはいられない松生。だがその報せは、彼らの妻、娘、恋人、愛人たちに予期せぬ波紋を広げてゆく。平穏な人生に突然割り込んできた女の存在によって、見知った男が別の顔を見せはじめる。一筋縄でいかない男女の関係を描く恋愛長編。(新潮文庫)

艶の存在を知らされた女性たちは、艶のことをまるで知りません。不意に現れた艶を知るうちに、過去に彼女と関係のあった男の妻や娘、恋人や愛人らは知った男の別の顔を知ることになります。艶は、たとえばこんなふうにして知るところとなります。

男はマツオと名乗った。松尾なのか松男なのかわからない。まさかいきなり下の名前を名乗りはしないだろうと思うが、いかにもそういう非常識をしそうな感じでもあった。びくびくしているくせに押しつけがましく、陰気くさいのに甘ったれたところがあった。若造みたいな話しかただったが、実際は自分と同じくらいの歳に違いない、とサキ子は感じた。

電話に出てきた名前はもうひとつあって、マツオよりもそちらのほうが印象は強かった。どういう漢字があたるのかマツオがわざわざ説明したせいかもしれない。その名前は、艶、というのだった。艶はマツオの妻で、今、死にかけている。死にかけている艶とマツオは、O島にいるという。(第3章「艶の愛人だったかもしれない男の妻、橋川サキ子(60歳)」より)

十人いれば十人が『つやのよる』の“つや”とは“通夜”のことだと思うに違いありません。そう思うとわかった上で『つやのよる』というタイトルがついてあります。本当は“艶”という名の女の話で、通夜とは関係ないかといえば、それがそうとも言えません。

艶という女は、今まさしく死ぬ間際にいます。そして、やがて死ぬことになります。それまでの彼女は、浮気に不倫、ストーカーや略奪など好き放題なことをやり、飽きるとすぐに別の男に乗り換える。艶は、いわゆる「男狂い」だったのです。

それはもうめちゃくちゃなのですが、男たちにすれば、(何かを諦観し、「無駄」な希望さえ抱かなければ)艶は女として得難い魅力を持った人物で、ただ思うがままに身体を貪り、後腐れのない、ある意味、およそいるはずのない女であったともいえます。

男たちは、いっとき艶に溺れもしますが、決して愛していたわけではありません。愛とは別のところでときどきに繋がっており、それはそれだけのことだったのです。しかし唯一人、松生春二だけはそうではなかったのです。

松生は、艶の最後の夫として彼女を看取ります。しかし彼もまた、艶と出会った最初から彼女を愛していたわけではありません。少なくとも松生の中では、そうするしか他に仕様がないので妻子と別れ、艶が行こうと言うのでO島へやって来たのでした。

ただ「忙しい」と、松生は思います。艶と出会ってからというもの、松生は絶えず何かに追い立てられるように気忙しくなり、じっとしていられなくなります。艶の行動を見張り、相手の男を捜し出し、艶が死にかけているのだと伝えてまわります。

松生は復讐がしたいのではありません。が、とにかくも艶と関係した男たちの全部に、艶の容体を伝えずにはおけないと思います。やがてそれは男の妻や愛人、恋人や娘の知るところとなり、彼女らは艶という名の女のことを強く知りたいと思うようになります。

艶と関係した男に連なる女性のそれぞれは、艶のことを心から許せないでいるかというと、どうもそういうことではなさそうです。翻弄されはしますが、彼女らは彼女らなりに、艶を通して、夫や今付き合っている男の別の顔を発見し、更には、女としての自分にも向き合うことになります。

松生の艶に対する献身を、それでも愛と呼べないものなのでしょうか。艶という悪女に翻弄されるばかりに思える女性らの、実は心の本音とはどういったものなのでしょう。

女の愛憎はいろいろで解らないことだらけだ。小説に描かれる愛のカタチは複雑で曖昧である。その愛はそれぞれの人生にただ横たわる。主人公たちは容易く愛の実態を掴むわけでもなく、都合良く吹っ切ることもないし、愛によって成長したりもしない。(行定勲の解説より)

だから、井上荒野の小説に嘘はないのだ。と。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「潤一」「夜をぶっとばせ」「虫娘」「ほろびぬ姫」「もう切るわ」「グラジオラスの耳」「切羽へ」「夜を着る」「誰かの木琴」「雉猫心中」「結婚」「赤へ」他多数

関連記事

『私の家では何も起こらない』(恩田陸)_書評という名の読書感想文

『私の家では何も起こらない』恩田 陸 角川文庫 2016年11月25日初版 私の家では何も起こら

記事を読む

『受け月』(伊集院静)_書評という名の読書感想文

『受け月』伊集院 静 文春文庫 2023年12月20日 第18刷 追悼 伊集院静  感動の直

記事を読む

『推し、燃ゆ』(宇佐見りん)_書評という名の読書感想文

『推し、燃ゆ』宇佐見 りん 河出書房新社 2021年3月15日40刷発行 推しが、

記事を読む

『ボニン浄土』(宇佐美まこと)_書評という名の読書感想文

『ボニン浄土』宇佐美 まこと 小学館 2020年6月21日初版 刺客は、思わぬとこ

記事を読む

『ある日 失わずにすむもの』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

『ある日 失わずにすむもの』乙川 優三郎 徳間文庫 2021年12月15日初刷 こ

記事を読む

『ドアの向こうに』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『ドアの向こうに』黒川 博行 創元推理文庫 2004年7月23日初版 大阪南東部の橋梁工事現場

記事を読む

『夜の側に立つ』(小野寺史宜)_書評という名の読書感想文

『夜の側に立つ』小野寺 史宜 新潮文庫 2021年6月1日発行 恋、喪失、秘密。高

記事を読む

『追憶の夜想曲(ノクターン)』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『追憶の夜想曲(ノクターン)』中山 七里 講談社文庫 2016年3月15日第一刷

記事を読む

『土に贖う』(河﨑秋子)_書評という名の読書感想文

『土に贖う』河﨑 秋子 集英社文庫 2022年11月25日第1刷 明治30年代札幌

記事を読む

『地獄行きでもかまわない』(大石圭)_書評という名の読書感想文

『地獄行きでもかまわない』大石 圭 光文社文庫 2016年1月20日初版 冴えない大学生の南里

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『あいにくあんたのためじゃない』(柚木麻子)_書評という名の読書感想文

『あいにくあんたのためじゃない』柚木 麻子 新潮社 2024年3月2

『執着者』(櫛木理宇)_書評という名の読書感想文

『執着者』櫛木 理宇 創元推理文庫 2024年1月12日 初版 

『オーブランの少女』(深緑野分)_書評という名の読書感想文

『オーブランの少女』深緑 野分 創元推理文庫 2019年6月21日

『揺籠のアディポクル』(市川憂人)_書評という名の読書感想文

『揺籠のアディポクル』市川 憂人 講談社文庫 2024年3月15日

『海神 (わだつみ)』(染井為人)_書評という名の読書感想文

『海神 (わだつみ)』染井 為人 光文社文庫 2024年2月20日

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑