『綴られる愛人』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/09 『綴られる愛人』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(た行)

『綴られる愛人』井上 荒野 集英社文庫 2019年4月25日第1刷

夫に支配される人気作家・柚。先が見えない三流大学三回生の航大。二人はひょんなことから 「綴り人の会」 というサイトを介して、文通をはじめる。柚は 「夫にDVを受けている専業主婦」 を装い、航大は 「エリート商社マン」 だと偽って - 。便箋の上に書かれた偽りが、いつしか真実を孕んで、二人をくるわせていく。掻き立てられた情動が、やがて越えてはならない一線を踏み越えさせて・・・・・・・。緊迫の恋愛サスペンス! (集英社文庫)

この小説は、「名前 本名も住所も顔も知らない文通相手の女性から夫の殺害を仄めかされ、結果それを実行してしまうことになる、ある青年の物語」 です。女性は自分を 「凛子」 と名乗り、青年は 「クモオ」 と名乗ります。

凛子は 「東京在住、二十八歳の専業主婦」。クモオは 「金沢の貿易会社に勤める三十五歳の独身エリートサラリーマン」。だがそれはあくまで文通用の自己申告で、凛子の正体は 「三十五歳の著名な児童文学作家」 の天谷柚だし、クモオの正体は 「富山県魚津市に住む二十一歳の大学生」 の森航大である。この二人が 「綴り人の会」 なる会に登録し、文通をはじめたのが、そもそもの発端であった。

自分も正体を偽っているのだから、相手だって偽物かもしれない。それくらいは二人も承知の上である。当初は柚も航大も、互いの文面を半ば鼻白む思いで読んでいた。それがなぜ、短期間で疑似恋愛のような形にまで発展したのか。

クモオ (航大) が凛子 (柚) の自己紹介に応じて最初の手紙を送ったのは八月。〈クモオさん。/会いたい。/会いたい。/会いたい。〉 と凛子 (柚) が訴え、クモオ (航大) が 〈僕は凛子さんに恋をしています〉 と告白したのが十一月。時間にすれば三ヶ月だけれども、「綴り人の会」 から手紙が転送されてるのは月に二回。たったそれだけのやりとりで、相手の何がわかるのか。その前に、人はそもそも文字情報だけで見知らぬ相手に恋愛感情を抱くことができるのだろうか?

さあそこが、手紙の怖いところである。(解説より by斎藤美奈子)

例えば、それが憎からず思う同士の、異性とのやり取りだったとしたらどうでしょう? 

書いた手紙が相手に届き、相手がそれを読み、返事を書いて投函し、その手紙が届くまでの間のもどかしく甘やかな気持ち。(一度や二度は) きっとそんなことがあったはずです。

封筒や便箋、インクの色までをも矯めつ眇めつ眺めては、思わず匂ってみたりはしなかったでしょうか? すぐに読むのがもったいなくもあり、読めば読んだで、書かれた内容よりもむしろ言外にある本心こそを知りたいと、深読みや要らぬ妄想を繰り返してはいなかったでしょうか。

データだけのやりとりにはない独自の手触り感をともなった書き手の分身、それが手紙ってやつなのだ。

柚と航大は、この罠にはまった。恐ろしく時間がかかり、情報量は限られており、しかも相手の素性すら知らない。負の要素だらけの通信手段。それでも、だからこそ、彼らは恋に落ちた。あるいは恋に似た感情に足元をすくわれた。(同上)

当初、互いに “疑心暗鬼” の塊でしかなかったものが、回を重ねる毎にまるで違う “関係” へと変化を遂げる - 「手紙がふたりを狂わせていく - その過程をこそじっくりと味わってください。

やがて柚は、全身全霊で 「凛子」 を演じるようになり、航大は激しくその 「凛子」 にのめり込むようになります。搦め捕られてしまいます。

ただ、柚にとって唯一誤算だったのは、航大が思った以上に若かった、ということです。まさか二十一歳の大学生とは思わなかった - それが思わぬ事態を招くことになります。

この本を読んでみてください係数 80/100

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「潤一」「虫娘」「ほろびぬ姫」「切羽へ」「つやのよる」「誰かの木琴」「ママがやった」「赤へ」「その話は今日はやめておきましょう」「あちらにいる鬼」他多数

関連記事

『東京奇譚集』(村上春樹)_書評という名の読書感想文

『東京奇譚集』村上 春樹 新潮社 2005年9月18日発行 「日々移動する腎臓のかたちをした

記事を読む

『竜血の山』(岩井圭也)_書評という名の読書感想文

『竜血の山』岩井 圭也 中央公論社 2022年1月25日初版発行 北の鉱山に刻まれ

記事を読む

『天頂より少し下って』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『天頂より少し下って』川上 弘美 小学館文庫 2014年7月13日初版 『天頂より少し下って

記事を読む

『リバー』(奥田英朗)_書評という名の読書感想文

『リバー』奥田 英朗 集英社 2022年9月30日第1刷発行 同一犯か? 模倣犯か

記事を読む

『追憶の夜想曲(ノクターン)』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『追憶の夜想曲(ノクターン)』中山 七里 講談社文庫 2016年3月15日第一刷

記事を読む

『グラジオラスの耳』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

『グラジオラスの耳』井上 荒野 光文社文庫 2003年1月20日初版 グラジオラスの耳

記事を読む

『噂』(荻原浩)_書評という名の読書感想文

『噂』荻原 浩 新潮文庫 2018年7月10日31刷 「レインマンが出没して、女の子の足首を切っち

記事を読む

『新装版 人殺し』(明野照葉)_書評という名の読書感想文

『新装版 人殺し』明野 照葉 ハルキ文庫 2021年8月18日新装版第1刷 本郷に

記事を読む

『女神/新装版』(明野照葉)_書評という名の読書感想文

『女神/新装版』明野 照葉 光文社文庫 2021年10月20日初版第1刷発行 とび

記事を読む

『ノボさん/小説 正岡子規と夏目漱石』(伊集院静)_書評という名の読書感想文

『ノボさん/小説 正岡子規と夏目漱石』(上巻)伊集院 静 講談社文庫 2016年1月15日第一刷

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『天使のにもつ』(いとうみく)_書評という名の読書感想文

『天使のにもつ』いとう みく 双葉文庫 2025年3月15日 第1刷

『救われてんじゃねえよ』(上村裕香)_書評という名の読書感想文

『救われてんじゃねえよ』上村 裕香 新潮社 2025年4月15日 発

『我らが少女A (上下)』 (高村薫)_書評という名の読書感想文

『我らが少女A (上下)』高村 薫 毎日文庫 2025年5月10日

『黒猫亭事件』(横溝正史)_書評という名の読書感想文

『黒猫亭事件』横溝 正史 角川文庫 2024年11月15日 3版発行

『一心同体だった』(山内マリコ)_書評という名の読書感想文

『一心同体だった』山内 マリコ 集英社文庫 2025年4月25日 第

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑