『あとかた』(千早茜)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/13
『あとかた』(千早茜), 作家別(た行), 千早茜, 書評(あ行)
『あとかた』千早 茜 新潮文庫 2016年2月1日発行
実体がないような男との、演技めいた快楽。結婚を控え〈変化〉を恐れる私に、男が遺したもの(「ほむら」)。傷だらけの女友達が僕の家に住みついた。僕は他の男とは違う。彼女とは絶対に体の関係は持たない(「うろこ」)。死んだ男を近くに感じる。彼はどれほどの孤独に蝕まれていたのだろう。そして、わたしは(「ねいろ」)。昏い影の欠片が温かな光を放つ、島清恋愛文学賞受賞の恋愛連作短編集。(新潮文庫解説より)
[ほむら][てがた][ゆびわ][やけど][うろこ][ねいろ]と名付けられた6つの連作短編。どれもが登場する人々らの日常を映し出しているようで、どこかしら普通ならざる気配を漂わせています。
それが千早茜の小説だと言われるとそれはそれで仕方ないのですが、最初読み出したときはおよそ恋愛小説とは思えない「昏さ」に、それとは違う別の何かを読まされているような気持ちになります。
[ほむら]・・・・結婚を直前に控えた女性(私)と、時を同じくして知人を介して「私」が知り合った「ある男」の話。
私と、私の結婚相手の徹也とはもう5年も一緒に暮らしています。(ですから、結婚するからといって互いの気持ちに殊更の変化があるわけではありません)
「もてあましていたような気もするし、単に足りなかっただけかもしれない。ただ、それが何かと問われれば答えようがなかった。言葉にした途端に、ないかもしれないそれにとらわれてしまう気もした」- ときの偽らざる心境を言えば、私はそんなふうでいます。
「おめでとう」などと満面の笑みで言われると、どうもその何かはうっすら滲んでしまうようにも感じられます。結婚前は何かと不安になるなどと言われもするのですが、(この感情は)不安、なのだろうか。不安ならば知っているはずだ。そもそも、自分ではない人との関係において不安でなかった時などないように思う - そう考えてもいます。
「まあ、結婚って言っても、かたちだけのことだから何も変わらないよ」- そう口にして、自分が徹也の言葉をそのままなぞっているだけなのに気付き、自分を含めた誰もが誰かの言葉を借りてつつがなくやりとりしていることにも気付かされます。
そういうことか、と思った。もう、自分はかたちに添いだしているのか。
ならば、と考えるのをやめた。滲むものもいつかは消えるだろうと思った。(本文より)
私がその男と出会ったのはそんな頃のことです。「あの人かなりいいかげんだよ。得体のしれないところがあるし。あんた意外と隙が多いよな」- 知人はそう言うのですが、何も私から望んでそうしたわけではありません。
たかだか「知人」のくせに知ったようなことを言うので、だから、私はその週のうちに男と会う約束をします。「止められたのにどうして会ってくれたのかが気になりますね」と男は言い、すぐにそう言ったのを忘れたように「さて、どこに行きましょうか」と言います。
その時、「この男の名をあまり呼びたくはない」と私は思います。呼んだが最後、心に居ついてしまうような気がします。が、結局私は男を受け入れ、また会う約束をします。男は当然のように腰に手をまわし、私は考える間もなく引き寄せられてしまいます。
男が何も訊かなかったせいもあるのですが、身体を重ねても不思議なほど罪悪感はありません。むしろ、自分ではない自分を少し上から見つめている感じで、心は驚くほど平静です。執拗に触られた身体はぼわぼわとしていて、一層のこと現実味が無くなります。
・・・・・・・・・・
いきなりのようにして籍を入れようと言い出した理由を訊ねると、徹也は「これといった理由もきっかけもないんだけど。まあ、しいて言うなら」と前置いた後、ややあって
「留めたいんだよ」と呟きます。「何を」と訊くと、徹也は「今の状態を。多分、落ち着きたいんだろうな。まあ、歳も歳だし」と応えます。
とそのとき、私の中で「二人の間の空気が歪む」のがわかります。「なぜ、いまさらそんなことを」と思わずにはいられません。結婚したからといって「かたちを留める」ことなんてできるはずもない。留められないものを留めようとするから、無理が生じてしまう。
留めたいと思った時点ですべからくものごとは膿んでいってしまうし、腐り果て、異臭を放ち、みるみる姿を変えてしまう。想いや瞬間を残すことなんてできるはずはなく、中ががらんどうのかたちばかりが残るだけなのに -
そんなものを徹也は欲しいのだろうか。今あるかたちを壊さないように結婚という枠にはめようとするのでしょうが、徹也から離れると私は、たちまちにしてかたちからゆるゆると滲みだしてしまうのです。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆千早 茜
1979年北海道江別市生まれ。
立命館大学文学部人文総合インスティテュート卒業。
作品 「おとぎのかけら 新釈西洋童話集」「からまる」「森の家」「桜の首飾り」「魚神」「眠りの庭」「男ともだち」など
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