『だれかの木琴』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/12
『だれかの木琴』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(た行)
『だれかの木琴』井上 荒野 幻冬舎文庫 2014年2月10日初版
主婦・小夜子が美容師・海斗から受け取った、一本のメール。それを開いた瞬間から、小夜子は自分でも理解できない感情に突き動かされ、海斗への執着をエスカレートさせる。明らかに常軌を逸していく妻を、夫の光太郎は正視できない。やがて、小夜子のグロテスクな行動は、娘や海斗の恋人も巻き込んでいく。息苦しいまでに痛切な長編小説。(幻冬舎文庫)
ふたりの恋は 終わったのね
許してさえ くれないあなた
さよならと 顔も見ないで
去って行った 男のこころ・・・・ (作中にある「サン・トワ・マミー」の歌詞より)
小夜子は、歌うようでいて歌ってなどいません。歌詞に意味はなく、サン・トワ・マミーのようにも思えるのですが、まるで別の歌のようにも思えます。声を出すわけでもなく、歌うというより、むしろ聞こえているといったほうがいいのかも知れません。
遠くの打楽器。太鼓よりももっと軽やかな、けれども差し迫った音。あれは木琴だろうか。
今日は火曜日で、山田海斗の休日だ。小夜子がなぜそれを知っているのかといえば、海斗が教えてくれたからだ。MINTは年中無休だけど、僕は火曜日が公休です、と海斗は言った。だから火曜日の予約は避けろということだったに違いないけれど、だから僕は火曜日には自宅にいます、という意味でもあるだろう。だから私は今日、海斗の自宅へ行く。歌のように小夜子は思う。
息子ほどに歳の離れた(MINTという名の美容院で働く)山田海斗にこれほどまでに執着するのはなぜなんだろう。店長の伊古田を前にして、この男ではなく海斗でなければならない理由は何だろう、と小夜子は考えます。
たとえばはじめてこの美容院を訪れた日、ちょっとしたタイミングの違いで海斗ではなくこの男が私の担当になったのだったら、そうしてこの男が私の携帯にメールを寄こしたとしたら、私はやっぱりこの男のことを終始考えるようになったのだろうか?
この男は海斗よりもずっと年上で、美容師というより不動産屋とか金融屋だと言われたほうが頷けるような風采だけれど、私にとって外見上の印象はきっと重要ではないのだ。それだけでなく、どんな人間であるかということさえ、たぶんどうでもいいのだ。
海斗であるべき理由は、偶然。ただそれだけだ - 果たしてそれが小夜子の本心であるのか、あるいは単にそうであってほしいと願う方便でしかないのかは、結局のところ最後まではっきりしません。
・・・・・・・・・
夏休みのある日、小夜子は体育館の入り口付近で娘のかんなの朝練の様子を覗き見たりします。かんなは体操部で、練習ではいつも白いレオタードを着用しています。小夜子に気付く様子はなく、薄い、もののわかったような微笑を浮かべながら話をしています。
その様子を眺め、小夜子はこんなことを思います。
- かんなの体がいちばん目立つ。小柄で細い子ばかりの女子部員の中にあってもなお華奢なほうなのに、娘の体は誰よりも〈声高〉だと小夜子は思う。あるかなきかの胸の膨らみは、それ自体が小さな活発な女の子のようだ。知らないことを知りたがり、もう知っていることを言いふらしたがっている。そんなふうに感じるのは私があの子の母親だからだろうか。それとも母親なのにこんなふうに感じるのは異常なことだろうか。
視線が娘の足からその付け根のほうへとさまよいそうになるのを慌てて逸らし、なまめかしい匂いが届きそうな気配に、小夜子は思わず手で鼻を覆います。
・・・・・・・・・
親海(およみ)小夜子は41歳の専業主婦。夫・光太郎は真面目なサラリーマンで、小夜子より5歳年上の46歳。娘・かんなは13歳。
家族3人は、新しい家で新しい生活をはじめたばかりです。彼らの日常は至極まっとうで、とりたてて問題はなく、満ち足りているように感じられます。小夜子が近くにあったはじめての美容院へ行ったことからこの物語は始まります。
彼女はそこで山田海斗という青年と出会います。彼がしたのは単に顧客に宛てた営業メールでしかなかったのです。しかし、小夜子にとってのそれは(説明するのが非常に難しいのですが)彼女の中にある何ごとかを揺り起こすには十分なメールだったのです。
ありふれた主婦だった小夜子は、なぜ狂気に堕ちたのか。何があって邪な情動に走り、止まれなかったのか。海斗と出会って小夜子の何かが、これまで思ったことも感じたこともない、ついぞなかったものに突然反応したのです。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。
作品 「潤一」「夜をぶっとばせ」「そこへ行くな」「ほろびぬ姫」「もう切るわ」「グラジオラスの耳」「切羽へ」「夜を着る」「雉猫心中」「結婚」他多数
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