『薄闇シルエット』(角田光代)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『薄闇シルエット』(角田光代), 作家別(か行), 書評(あ行), 角田光代

『薄闇シルエット』角田 光代 角川文庫 2009年6月25日初版

「結婚してやる。ちゃんとしてやんなきゃな」と恋人に得意げに言われ、ハナは「なんかつまんねえ」と反発する。共同経営する下北沢の古着屋では、ポリシーを曲げて売り上げを増やそうとする親友と対立し、バイト同然の立場に。結婚、金儲けといった「ありきたりの幸せ」は信じにくいが、自分だけの何かも見つからず、もう37歳。ハナは、そんな自分に苛立ち、戸惑うが・・・・。ひたむきに生きる女性の心情を鮮やかに描く傑作長編。(角川文庫)

物語はとある居酒屋での何気ないやり取りから始まります。四人いるうちの二人、ハナとタケダくんは恋人同士で、付き合ってもうずいぶんと長くなります。このとき、タケダくんが言い放ったひと言に、ハナは著しく気分が悪くなります。- なんかつまんねえや。

まったく何もかもがいつも通りなのに、ハナは一々に苛ついています。浮かれた時にそうなるタケダくんの、一種独り言めいたしゃべり方。サンクスでのだらしない買いもの。37にもなってアルバイト暮らしの男が、利いたふうな口をきくなよ、などと。

私に続いてタケダくんが部屋に上がり、玄関先に置いてある灰皿で煙草をもみ消した。習慣になっているそんなことも腹立たしかった。タケダくんのために玄関先に灰皿など用意している自分は、いったいなんなんだろうと思った。(本文より)

そりゃもちろん結婚するんだよ、当然でしょう、と、数時間前、タケダくんはノリちゃんとムラノくんに言い放ったのでした。ムラノくんが「ハナちゃんももう37歳になったもんな」と言い、それを受けたかたちで、タケダくんは揺るぎなくそう言ったのです。

それがハナには初耳で、彼女はタケダくんが結婚を考えているなどとは全く知らなかったのです。それを彼は共通の友人の前で、宣誓のように口にしたそのとき、ハナは(本当なら)喜ぶべきだったのだろうと思い返しています。

タケダくんは得意げになって言います。「だってさあ、こいつもおれももうこんな年なんだし、ちゃんとしてやんなきゃってやっぱ思うよね。だらついてんのはせいぜい三十五までだよな」本人には結婚のけの字も言わず、友人の前で突然その話を持ち出したことが、粋で洒落た行為だといわんばかりの勢いで、そんなことをぺらぺらとしゃべったのでした。

しばらくのあと、ハナはタケダくんが言ったことをつらつらと思い出しては、こんなふうに考えます。- どうして結婚が当然なのか。どうして私がちゃんとしてもらわなきゃなんないのか。その決定にまつわる権限をどうしてタケダくんが持っていて、私がその決定を喜ぶとどうして誰も疑わないんだろう、と。
・・・・・・・・・
次に、ハナはこれとよく似たことを思い出します。それは彼女が家を出るまでの十八年間続いた、誕生日ケーキのことです。家族の誕生日には、いつも母の手作りのケーキが登場し、それは決まって生クリームと苺のケーキだったといいます。

高校一年生になり、ハナが初めてケーキ職人が作った(本物の)ケーキを食べた時。その衝撃は物凄く、一口食べて度肝を抜かれてしまいます。それは母のケーキととてもよく似たケーキだったのですが、比べものにならないほど美味しかったのです。

(ハナが)思うに、母が焼くケーキは決してまずかったわけではありません。しかし、それはあくまで素人の作る美味しいケーキで、ケーキ職人の作ったケーキを味わったあとでは、いかにも貧乏くさく、垢抜けず、古典的でマンネリ化したものでした。

しかし母は、自分が作るケーキが誕生日を迎えた人を幸福にすると信じて疑わず、せっせと作ります。母を悲しませないためにそれを食べるのですが、時に無理を言うと、母は威厳と傲慢さでもって、「今度の誕生日にケーキは作ってあげませんからね」と宣言します。

ハナは、鼻白むようなあわれむような、苛つくような侮辱したいような、荒々しい気分になったといいます。つまんねえ女。大通りの古びたケーキ屋ですら、あんたが百年かかっても作れない美味しいケーキがわんさとあるのにさ。五百円かそこらでそれは手に入るのにさ - と。

なんかつまんねえ、と、居酒屋で感じた気分は、高校生のハナが母のケーキに対して感じたこととまったく同じだったのです。結婚という言葉で喜ぶと、どうしてタケダくんは信じているのだろう。

今まで数え切れないほどの言葉を交わしてきた二人は、その言葉の奥に相手の姿をきちんと見てきたのだろうかと。その時のハナは、白い壁にぼんやり映る自分の影と見つめ合いながら、そんなことを考えています。

※ 第一章「ホームメイドケーキ」より。断っておきますが、これはほんのさわりにしか過ぎません。このあと物語は、タイトルの「薄闇シルエット」を間に挟み、第七章「空に星、窓に灯」まで続いてゆきます。

この本を読んでみてください係数  85/100

◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「空中庭園」「かなたの子」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「マザコン」「だれかのいとしいひと」「ドラママチ」「それもまたちいさな光」「対岸の彼女」他多数

関連記事

『鵜頭川村事件』(櫛木理宇)_書評という名の読書感想文

『鵜頭川村事件』櫛木 理宇 文春文庫 2020年11月10日第1刷 墓参りのため、

記事を読む

『R.S.ヴィラセリョール』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

『R.S.ヴィラセリョール』乙川 優三郎 新潮社 2017年3月30日発行 レイ・市東・ヴィラセリ

記事を読む

『ある女の証明』(まさきとしか)_まさきとしかのこれが読みたかった!

『ある女の証明』まさき としか 幻冬舎文庫 2019年10月10日初版 主婦の小浜

記事を読む

『田舎の紳士服店のモデルの妻』(宮下奈都)_書評という名の読書感想文

『田舎の紳士服店のモデルの妻』宮下 奈都 文春文庫 2013年6月10日第一刷 東京から夫の故郷に

記事を読む

『抱く女』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『抱く女』桐野 夏生 新潮文庫 2018年9月1日発行 女は男の従属物じゃない - 。1972年、

記事を読む

『ある男』(平野啓一郎)_書評という名の読書感想文

『ある男』平野 啓一郎 文藝春秋 2018年9月30日第一刷 [あらすじ] 弁護士

記事を読む

『俺はまだ本気出してないだけ』(丹沢まなぶ)_書評という名の読書感想文

『俺はまだ本気出してないだけ』丹沢 まなぶ 小学館文庫 2013年4月10日第一刷 元々は青

記事を読む

『月の砂漠をさばさばと』(北村薫)_書評という名の読書感想文

『月の砂漠をさばさばと』北村 薫 新潮文庫 2002年7月1日発行 9歳のさきちゃんと作家のお

記事を読む

『キッドナップ・ツアー』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『キッドナップ・ツアー』角田 光代 新潮文庫 2003年7月1日発行 五年生の夏休みの第一日目、私

記事を読む

『父からの手紙』(小杉健治)_書評という名の読書感想文

『父からの手紙』小杉 健治 光文社文庫 2018年12月20日35刷 家族を捨て、

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『殺戮の狂詩曲 (ラプソディ)』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『殺戮の狂詩曲 (ラプソディ)』中山 七里 講談社文庫 2026年4

『庭の桜、隣の犬』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『庭の桜、隣の犬』角田 光代 角川文庫 2026年1月25日 初版発

『教育』(遠野遥)_書評という名の読書感想文

『教育』遠野 遥 河出文庫 2026年4月20日 初版発行 ま

『旅の短篇集 春夏』(原田宗典)_書評という名の読書感想文

『旅の短篇集 春夏』原田 宗典 2026年4月10日 再版発行

『幻夏』(太田愛)_書評という名の読書感想文

『幻夏』太田 愛 角川文庫 2024年5月15日 28版発行

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑