『グロテスク』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/14
『グロテスク』(桐野夏生), 作家別(か行), 書評(か行), 桐野夏生
『グロテスク』桐野 夏生 文芸春秋 2003年6月30日第一刷
「人は自分のためにしか生きられない」
北海道出身の女性作家・桜木紫乃が、小説『星々たち』の主人公・塚本千春の運命について語った言葉 - 恵まれない境遇の末、千春は北の大地を転々としながら生き延びます。連鎖する不幸に対して「胸が痛む」という感情は、それが他人事だからだと桜木紫乃は言います。「可哀想という感想をいただくことはあるのですが、本人がそれでよしとしていることは、生みの親である私も肯定したいんです」と。
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この小説に登場する、和恵、ユリコ、そしてユリコの姉、三人の女性たちは他の誰でもない自分のために生きた女性でした。
比類なき美女として生まれたユリコを、姉の「わたし」は憎んでいます。スイスに住むことになった家族と離れて暮らすために、難関のQ女子高を受験して合格した「わたし」は、日本に残って祖父とふたり暮らしを始めます。これで毎日ユリコの顔を見なくて済みます。ユリコと比較されて、惨めな思いをすることもないわけです。
しかし、エスカレーター式のQ女子高は「わたし」の期待を裏切り、特権階級の子弟のみが幅を利かせて、途中入学の一般学生には立ち入れない壁が厳然と存在する場所でした。一貫教育で純粋培養された生徒との溝は深く、埋まることはありません。「わたし」と同様に受験を経て入学した佐藤和恵もまた、あからさまな差別に憤りを募らせます。
憤慨する和恵を「わたし」は冷やかに見ています。凡庸で美しくない和恵の、身の程知らずな言動は醜く感じられるだけで「わたし」は同情する気持ちになれません。
夏休み前に母親が自殺したことで、ユリコが日本へ戻ってくることになり、「わたし」は愕然とします。やっと離れられたと思ったら、あろうことかユリコは帰国子女枠でQ女子高の中等部へ編入してしまいます。美貌を武器に、ユリコは生物教師の息子・木島と組んで学内で売春を始めるのでした。
しかし、売春していることがばれてユリコは結局退学処分となります。高校三年になったばかりの頃です。以後、彼女の男性遍歴は終生途絶えることはありません。
和恵はQ大学へ進学、大手のG建設に就職します。彼女の仕事ぶりは優秀で、若くして管理職に抜擢されるまでになります。「わたし」は現在、区役所でアルバイトとして働いています。誰からも一定の距離を置き、自分の殻に閉じ籠るように暮らしています。
それから二十年後、ユリコと和恵は渋谷で殺害されます。二人はともに、娼婦のなかでも最下層の街娼として最期を迎えます。
なぜ二人は殺されたのか。街娼に転落するまでの彼女たちの人生には一体何があったのか。
第三章ではユリコの手記、第五章では二人を殺したとされる中国人の張(チャン)の上申書、第七章では和恵の日記と、それぞれ当事者によって自らの来し方が語られます。そのことは一方で、他者の「わたし」が語るところの彼らの行状や思惟には他者故の限界があり、到底本人の内実には迫れないことを露呈する結果ともなります。
登場する女性たちの誰しもは悪人ではありません。しかし、総じて嫌味で好ましくもありません。桐野夏生は意図して、まっとうな人間を裏側から描きます。個としての本性、妬みや嫉妬、狡猾さや自惚れ、物欲や性欲、日頃は内側に溜め込んだあらゆる邪悪な想念をすべて晒してみせます。
容姿の美醜、収入の多寡、知性と学歴、家柄や所属する社会や組織に至るまで、あらゆるこの世の差別を書いてやろう...この小説を書いた動機を桐野夏生はこう述べています。
この小説は、現実に起きた事件をモチーフにして書かれています。1997年、東京都渋谷区円山町で発生した「東電OL殺人事件」です。被害者の女性は当時39歳、慶應義塾大学経済学部を卒業して、東京電力へ初の女性総合職として入社したエリート社員でした。彼女は退勤後、円山町付近の路上で客を勧誘しては売春を繰り返していたといいます。
3月9日未明、彼女は円山町のアパート1階の空室で死体となって発見されます。死因は絞殺。被害者が生前に売春した相手の一人で、ネパール人の男が逮捕されます。(このネパール人男性は、後に冤罪として釈放されています。)死亡当時の彼女を知るコンビニ店員の証言によると、彼女はコンニャクなどの低カロリー具材に大量の汁を注いだおでんを頻繁に買っていたらしく、当時の姿は骨と皮だけのような躰だったということです。
日記のなかの和恵は、すでに常識の規範から大きく逸脱した「怪物」のごとく描かれています。エリート社員である自分を、さらに違う次元の高みへ誘うために売春を繰り返します。誰もが羨む大手企業に入ったもののやはりそこは男社会で、正当に評価されない自分に鬱々とした挙句、和恵は孤立し自堕落になって徐々に自分を見失って行きます。
実は自分には別の顔があり、誰もが想像もしない娼婦として日々男から搾取しているという快感が、いつしか和恵にとって唯一の糧にすり替わるのでした。
小説のなかの和恵は、東電の被害者が辿った軌跡を忠実に再現してはいますが、当然のことながら全くの別人です。現実の被害者の人生に何があったのかは、本人に聞いてみる以外どこまでも分かりません。せいぜい「わたし」のように圏外で高みから見下すようにして、分かったようなふりをするのが精一杯なのです。
およそ桐野夏生の着地とは違うのでしょうが、私がこの小説を読み終わった後に思うことはやはりこんな感想になります。
「人は自分のためにしか生きられない」
※この小説は第31回泉鏡花文学賞受賞作です。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆桐野 夏生
1951年石川県金沢市生まれ。父親の転勤で3歳で金沢を離れ、仙台、札幌を経て中学2年生で東京都武蔵野市に移り住む。
成蹊大学法学部卒業。24歳で結婚。シナリオ学校へ通い、ロマンス文学やジュニア文学、漫画の原作などを手がける。
作品 「愛のゆくえ」「錆びる心」「玉蘭」「残虐記」「魂萌え!」「東京島」「女神記」「IN」「ナニカアル」「ハピネス」「だから荒野」「夜また夜の深い夜」他多数
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