『この世の全部を敵に回して』(白石一文)_書評という名の読書感想文

『この世の全部を敵に回して』白石 一文 小学館文庫 2012年4月11日初版

あなたは子供の頃、「どうして僕は僕なんだろう」「私は私なんだろう」とふと思ったことはなかったでしょうか。

「私はしょっちゅうだった。大勢の他人の群れを日々眺めながら、私は私が私である不可解さにいつも首をひねっていた。この人たちと私とは一体何が違うのだろう。」

そんな疑問で頭がはちきれんばかりになった...この小説の語り手はこう述懐しています。

程度の差こそあれ誰もが一度は同じようなことを思い、答えの出ない疑問に悩ましい思いをした経験があるのではないでしょうか。

何か特別な理由があって私は存在しているのかも知れない。根も葉もない、根拠と呼べるものなど何もないのに人は時おりそんな思いに囚われてしまうことがあります。

・・・・・・・・・・

『この世の全部を敵に回して』は、根源的な人の生き様とその果てに迎える「死」にどんな意味があるのかが示された、白石一文らしい哲学的な小説です。

物語は、週刊誌の記者だった著者が取材で大阪へ向かう途中、新幹線で偶々隣り合わせになった人物が書いた手記を公開するという体裁で語られています。

その人物は53歳の妻子ある男性なのですが、いきなり「私は子供たちのことも妻のことも愛してはいない」「人間は癌のような存在」で「無秩序に繁殖している」と語り始めます。

しかし、彼が冷徹な人間かというとそんな単純なことではありません。これから彼が語ろうとすること、彼が世界とどんなスタンスで対峙しているかを示唆する独特の言い回しなのです。

彼の感性を象徴する話をひとつ紹介します。

中学1年のとき、同級生の女の子の妹が誘拐されるという事件が起きます。事件発生から5日後、妹は遺体となって発見されます。

葬儀の後級友の一人が、イジメの対象になっていた同級生に対して金輪際彼女をからかわないと誓い、他の級友もしんみりするのですが、彼はその様子に反吐が出そうになります。

皆がしたイジメに根本的な反省をせず、妹が殺されたことへの同情で彼女への仕打ちが免除されるならば、彼女を救ったのは結果的に誘拐犯人になってしまうではないですか。

そのことに気付かない愚かさに、呆れて物も言えなかったのです。

人間が発揮する善意や優しさが、欺瞞に満ちた代物以外にはあり得ないことに、彼は次第に気付かされていきます。

等しく訪れる死に対して、猶予期間として与えられた限りある時間を生きているのが我々であり、限りある時間であるが故に「私」は他者と区分されているだけだと彼は考えます。

仮に不死ならば、私たちはずっと私たちでいる必要もなく、そんなものに拘泥していては数百年生きただけで退屈して死にたくなるだろうと彼は思うのです。

生まれたこと、生きていることに積極的な意味を見出せずにいる彼は、世界の仕組みを呪い、如何に死に至るかに重大な関心を寄せます。

第二部では、死へと向かう実際のプロセスに話は踏み込んでいきます。「誰がこのような世界を準備し、私という人間を創造し、その世界に送り出したのか」が考察されます。

現世を生きる苦しみに対して、こんな世界ならいっそない方がましではないかとさえ彼は思うのでした。

生物同士の殺し合い、人間同士も殺戮を繰り返し、弱者は常に強者の迫害を受け、飢えや性欲、病や老いに引きずられながら他者の幸福を奪い、他者の希望を打ち砕いてでしか人生の成功を達成できないようなこの世界を忌み嫌い、生まれてこなくても良かったと痛感するのです。

生殖と性行為とが極端に乖離した人間のセックスを身勝手で醜悪なものだと嘆きます。

戦争、テロ、狂言、犯罪、飢餓、貧困、人種差別、拷問、幼児虐待、人身売買、売買春、兵器製造、兵器売買、動物虐待、環境破壊...

私たち人間は歴史の中でこれらのうちのたったひとつでも克服できただろうか。答えは否で、今後もそんなことは絶対にできないのだ、と断罪します。

私が創造主なら、絶対にこんな世界は作らない、と彼は言い切ります。

・・・・・・・・・・

賛否両論あるとは思いますが、ある人たち、自分の生きる意味を深く問い詰めた経験のある人にとって、この小説は貴重なバイブルとなるかも知れません。

最後に、13年間生きた飼い猫のハチが死んだときの心境が語られるのが印象的です。

この本を読んでみてください係数  75/100


◆白石 一文

1958年福岡県福岡市生まれ。

早稲田大学政治経済学部卒業。文芸春秋に入社、週刊誌記者、文芸誌編集に携わる。

父白石一郎は直木賞作家。双子の弟白石文郎も小説家。

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