『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子)_書評という名の読書感想文

『おらおらでひとりいぐも』若竹 千佐子 河出書房新社 2017年11月30日初版

結婚を3日後に控えた24歳の秋、東京オリンピックのファンファーレに押し出されるように、故郷を飛び出した桃子さん。身ひとつで上野駅に降り立ってから50年 - 住み込みのアルバイト、周造との出会いと結婚、二児の誕生と成長、そして夫の死。
この先一人でどやって暮らす。こまったぁどうすんべぇ
40年来住み慣れた都市近郊の新興住宅で、ひとり茶をすすり、ねずみの音に耳をすませるうちに、桃子さんの内から外から、声がジャズのセッションのように湧きあがる。捨てた故郷、疎遠な息子と娘、そして亡き夫への愛。震えるような悲しみの果てに、桃子さんが辿り着いた、圧倒的自由と賑やかな孤独とは - (河出書房新社)

第54回文藝賞第158回芥川賞受賞作品

物語の冒頭、桃子さんは “内なる自分” とこんな会話をします。

あいやぁ、おらの頭(あだま)このごろ、なんぼがおがしくなってきたんでねべが どうすっぺぇ、この先ひとりで、何如(なんじょ)にすべがぁ
何如にもかじょにもしかたながっぺぇ てしたごどねでば、なにそれぐれ
だいじょぶだ、おめには、おらがついでっから。おめとおらは最後まで一緒だがら
あいやぁ、そういうおめは誰なのよ
決まってっぺだら。おらだば、おめだ。おめだば、おらだ

彼女はとても思慮深いご老人で、それは生まれついてのことです。”75歳になんなんとする” ご婦人にしては大層ノウドウテキで(この場合、能動的ではなくて、脳がよく働くという意味で脳動的)、- 独り身の今を盛りに(!?)、考えに考えます。

何が為に生きて来たかと。これからの人生、何を思って生きるべきかと。今在る己の心境を、かつて暮らした故郷の祖母に向かって吐露します。

ばっちゃ、おらはこごにいるよ。おめはんの孫はここでこうして暮れ方の空を眺めているよ。こういうふうになってしまった。これでいいのすか。

なりなりだぁ。大きな目を見開いて桃子さんをじっと見て、ばっちゃはあの頃のように言う。うんと良くもねが、さりとてうんと悪くもね、それなりだぁ。その声が聴こえたと思ったとたん、不覚にも甘い感傷に襲われて、四つや五つのわらしこにでもなったかのように、ばっちゃの前掛けに顔を埋めておいおいと声を上げて泣きたい衝動に駆られる。

ばっちゃの前掛けは日向のござの上の干し大根のような、甘いにおいがしたものだった。ばっちゃの前掛けに顔を埋めたい、それを何とか堪えた、何せ、あの頃のばっちゃと同じ年になっている。(P32)

若くして故郷を捨て、桃子さんはひとり町へと出ます。以後50年。仕事、出会いと結婚。息子と娘が生まれ、成長し、やがて別れてゆきます。そして、最愛の夫・周造の死。桃子さんは、長い年月を経て、またひとりになります。

亭主が死んで初めて、目に見えない世界があってほしいという切実が生まれた。何とかしてその世界に分け入りたいという欲望が生じた。それまでは現実の世界に充足していて、そんなことは考えもしなかった。それだのに。科学的でないことは受け入れない、自分は戦後に教育を受けた新しい人間なのだ、頑なにそう思っていて、そんな世界を吹聴する人を旧弊とひそかに軽蔑もしていた。それだのに。(P114)

桃子さんは、激しく自戒します。

だがその時はもう、自分がこれまで培ったと思っていたものが全部薄っぺらなものに思えていた。ほだっで、おら何も知らねがったじゃぁ。あの当時ため息のようにして何度繰り返したことだろう。何も知らねがった。

体が引きちぎられるような悲しみがあるのだということを知らなかった。それでも悲しみといい、悲しみを知っていると当たり前のように思っていたのだ。分かっていると思っていたことは頭で考えた紙のように薄っぺらな理解だった。自分が分かっていると思っていたのが全部こんな頭でっかちの底の浅いものだったとしたら、心底身震いがした。(P114の続き)

そして最後に、

もう今までの自分では信用できない。おらの思っても見ながった世界がある。そごさ、行ってみって。 おら、いぐも。 おらおらで、ひとりいぐも。(P115)

と、強く、強く決心するのでした。

※こんなのを、青春小説に対し 「玄冬小説」 というらしい。玄冬小説とは、歳をとるのも悪くない、と思える小説のことです。

この本を読んでみてください係数  85/100

◆若竹 千佐子
1954年岩手県遠野市生まれ。
岩手大学教育学部卒業。現在、主婦。

作品 55歳から小説講座に通いはじめ、8年の時を経て本作を執筆。2017年、第54回文藝賞を史上最年長となる63歳で受賞。

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