『東京放浪』(小野寺史宜)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/10
『東京放浪』(小野寺史宜), 作家別(あ行), 小野寺史宜, 書評(た行)
『東京放浪』小野寺 史宜 ポプラ文庫 2016年8月5日第一刷
「一週間限定」 の “放浪の旅” に出た森くんは、一等あてにしていたサークル仲間のツネにフラれ、バイト仲間の宇野さんにもフラれ、次に、実はそれほど親しかったわけでない、クラスメイトだった根本誠に連絡することを思い立ちます。
根本は、今は銀行員。大学の知り合いで銀行に就職したのは彼だけで、根本は今も山手線環内の高田馬場にある実家暮らしをしています。東京に住んでいるということだけを頼りにメールを出すと、根本からはいともあっさりOKと返事が返ってきます。
二人は大学卒業後、一度も会っていません。会うのは、三年半ぶりのことになります。
「森さ、もしかして、仕事やめた? 」 「わかる? 」
「いきなり泊めてくれだから、そうなのかとは思うよ。確か寮だったよな? 」
「そう、やめたから、出ざるを得なくなった」 「で、どうするわけ? 」
「とりあえず姉ちゃんのところに行こうと思ってる。ただ、今、海外旅行に出ちゃっててさ、戻るのが一週間後なんだよ。だからそれまでは、あちこち泊り歩こうかと」
遠慮ぎみの森くんに対し、根本は 「飲みに行こう」と誘います。根本の行きつけの居酒屋で、森くんは、酒の勢いを借り、彼ならばと、仕事を辞めた直接のきっかけまでを一気に話し出します。大学を出た森くんが勤め、そして辞めたは、名の知れた百貨店でした。
売り場に二年いたあとで外商に出されるというのは、店の既定路線だった。そのどちらもを経験して、ようやく一人前の社員になるのだ。(中略) 売り場の社員の仕事は裏方でのものがほとんどだが、催事場などでは先頭に立つこともあり、それが気分転換にもなる。
対して外商は、地味でキツいことが延々と続く仕事だ。たとえ新人でも、課される売上目標は大きい。動かす金額そのものが大きいだけに、月によって実績にバラつきも出る。
外商員になった一年後には、もうそのバラつきも出なくなった。いい意味ではない。低いところで数字が安定するようになったのだ。
「残念ながら、僕には売る力がなかった。」- 当時のことを、森くんはそうふり返ります。
商品のよさを力説すれば、いいね、との言葉は引きだせる。ただ、そのあとの、いいけどいらない、を、いいから買うよ、に変えられない。人にものを売るのがいかに難しいか。それがよくわかった。買いに来てくれた人にものを売るのと、こちらからすすめてものを売るのは、まったく別のことなのだ。
口がうまければいいというものではない。実直ならいいというものでもない。口がうまいという印象はマイナスに働くこともあるし、そうとわかっていながらプラスに働くこともある。実直もまた同じだ。
似たような経験をしてきた私には、時の森くんの心情が痛いほどよくわかります。もしも森くんが、(特別優秀ではないにせよ) それなりの販売実績があったとすればどうでしょう? 苦労の末勝ち取った就職先に、断ち切れない未練があったとすればどうでしょう?
おそらくは、もうちょっとは頑張れたかもしれません。少なくとも慌てて辞めることはなかったのです。但し、それが望んで入った職場ならば、ということですが。
一度無理だと思ってしまうと、もう仕事に身が入らなくなった。行くあてもないのに営業車でひたすら街を走り、公園のわきや川沿いの道に車を停めてひたすらぼーっとした。
そんな時 (森くん的に言うと「気持ち的にちょっとヤバいとき」)、彼は顧客の江上さん宅を訪れます。その日、森くんは江上さんに秋物のコートを届けることになっていました。その品物は何度も通った末にようやく買ってもらえることになったものでした。ところが、
いざ指定された時刻に訪ねてみると、江上さんはあっけなく、それいらない、と言います。そして、ついでに持ってきてくれと頼んでいた粗品のタオルだけをもらおうとします。質のいいデパート製の、売るなら一枚五百円の値が付くタオルを、それも五枚も、です。
「事件」 は、その直後に起こります。「事件」 を収めるために課長同伴で再び江上さん宅を訪れた翌日、森くんは、さらに前日の 「事件」 を上塗りするような 「事件」 を起こしてしまいます。その結果、森くんは三年半勤めた会社を辞めることになります。
第一話「水曜日、第一夜」 の最後の最後。実家の理容室にいて、根本はそんな森くんに対し、こう言い放ちます。
「いろいろ聞いてみて思ったんだけどさ」 目の前の大鏡に小さく映る根本が言う。 「森、甘くね? 」
※この作品は、2014年7月にポプラ社より『それは甘くないかなあ、森くん。』として刊行されたものを改題し、文庫化なったものです。森くんの “放浪” は始まったばかりです。根本は物語の最後の最後、今度は森くんにとって思いもよらない吉報をもたらすことになります。
目立たぬ森くんに、ちょっとした武勇伝ができた。入社3年、顧客と衝突して会社を辞めたのだ。勢いで休暇がわりの放浪生活を始めたが、一宿を請うた友人のアパートで樹里ちゃんという5歳の女の子を預かる羽目に - 。26歳の新たな旅立ちを描いた、爽やかな青春小説! (ポプラ文庫)
この本を読んでみてください係数 80/100
◆小野寺 史宜
1968年千葉県生まれ。
法政大学文学部英文学科卒業。
作品 「ROCKER」「カニザノビー」「転がる空に雨は降らない」「牛丼愛 ビーフボール・ラブ」「それ自体が奇跡」「ひと」他
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