『千の扉』(柴崎友香)_書評という名の読書感想文

『千の扉』柴崎 友香 中公文庫 2020年10月25日初版

千の扉 (中公文庫)

五階建ての棟の先には、高層棟が見える。何階建てなのか、ぱっと見たところはわからない。以前住んでいた市営住宅にも五棟あった高層棟は十一階建てだったから、ここも十一階か十二階だろう。あの部屋ならきっと、新宿の高層ビルまで見通せる。この四階の部屋も、欅や桜のおかげで景色はいいのだが、他の棟はどんな感じなのか、覗いてみたかった。

この都営住宅には、三千戸もの部屋があった。三千の部屋に、七千人近い人間が住んでいた。(本文より)

千歳は、夫の一俊の祖父である勝男から、ある男を探すように頼まれる。千歳は、昭和の時代に建てられた巨大な団地のなかでその男を探す。あらためて振りかえってみると、千の扉 のストーリーはとても単純だ。頁数もそれほど多くない。でも、ここに描かれているのは、何千という扉のむこう側にいる、何千、何万という人びとの人生だ。戦争中から現在までに流れた七十年という時間のなかにひろがる、膨大な人生。

千の扉の向こう側の物語が、時間を自由に行き来しながら、様々な視点から語られる。

この団地で特撮ヒーローもののロケがあった。出演した若い女優と俳優は、その数年後にその道を諦め、別の仕事に就くことになる。

千歳がバイトする 「カトレア」 という喫茶店は、もともとは北川青果店という八百屋で、その二階にアキという女が間借りして短いあいだ暮らしていた。男に殴られて金を持ち逃げされ、家賃が払えずアパートから追い出され、行き場をなくしていたのだ。しかしアキはせっかく住まわせてくれた北川青果店の売り上げを盗んで、どこかへ消えてしまう。

衣料品卸しの会社で働いていた男がいて、あるトラブルに巻き込まれて執行猶予付きの有罪になる。居場所を失った男はこの団地の広場に来て、ベンチに腰掛けてただぼんやりとタバコを吸っている。彼は実は、千歳が探している男とかすかなつながりがあるのだが、そのことは誰も知らない。

三島直美は千歳の職場の同僚で、歳も近いのだが、中学生と高校生の息子がいる。次男のほうは絵を描くのが好きで、美術科のある高校を受験したがっているが、直美は反対している。

ほんの数行だけ登場して、消えていく人びとの人生が事細かに語られ、物語は複雑に分岐していく。しかし、いつもの柴崎友香の作品のように、千の扉 も、とても静かだ。人びとの人生は、淡々とした、簡潔な、しかし優しい言葉で描かれる。

以上の文章は、岸政彦による解説の一部である。おそらく私は本編の小説よりも、岸政彦が書いた解説が読みたかったのだと思う。

『千の扉』 と岸政彦は、とてもお似合いだ。そう書けば、わかる人にはわかると思う。

この本を読んでみてください係数  85/100

千の扉 (中公文庫)

◆柴崎 友香
1973年大阪府大阪市大正区生まれ。
大阪府立大学総合科学部国際文化コース人文地理学専攻卒業。

作品 「きょうのできごと」「次の駅まで、きみはどんな歌をうたうの?」「青空感傷ツアー」「フルタイムライフ」「寝ても覚めても」「その街の今は」「春の庭」他多数

関連記事

『私の息子はサルだった』(佐野洋子)_書評という名の読書感想文

『私の息子はサルだった』佐野 洋子 新潮文庫 2018年5月1日発行 私の息子はサルだった (

記事を読む

『地獄への近道』(逢坂剛)_書評という名の読書感想文

『地獄への近道』逢坂 剛 集英社文庫 2021年5月25日第1刷 地獄への近道 (集英社文庫

記事を読む

『スクラップ・アンド・ビルド』(羽田圭介)_書評という名の読書感想文

『スクラップ・アンド・ビルド』羽田 圭介 文芸春秋 2015年8月10日初版 スクラップ・アン

記事を読む

『スイート・マイホーム』(神津凛子)_書評という名の読書感想文

『スイート・マイホーム』神津 凛子 講談社文庫 2021年6月15日第1刷 スイート・マイホ

記事を読む

『死ぬほど読書』(丹羽宇一郎)_書評という名の読書感想文

『死ぬほど読書』丹羽 宇一郎 幻冬舎新書 2017年7月30日第一刷 死ぬほど読書 (幻冬舎新

記事を読む

『佐渡の三人』(長嶋有)_書評という名の読書感想文

『佐渡の三人』長嶋 有 講談社文庫 2015年12月15日第一刷 佐渡の三人 (講談社文庫)

記事を読む

『すみなれたからだで』(窪美澄)_書評という名の読書感想文

『すみなれたからだで』窪 美澄 河出文庫 2020年7月20日初版 すみなれたからだで (河

記事を読む

『自由なサメと人間たちの夢』(渡辺優)_書評という名の読書感想文

『自由なサメと人間たちの夢』渡辺 優 集英社文庫 2019年1月25日第一刷 自由なサメと人

記事を読む

『幻年時代』(坂口恭平)_書評という名の読書感想文

『幻年時代』坂口 恭平 幻冬舎文庫 2016年12月10日初版 幻年時代 (幻冬舎文庫) 4

記事を読む

『崖の館』(佐々木丸美)_書評という名の読書感想文

『崖の館』佐々木 丸美 創元推理文庫 2006年12月22日初版 崖の館 (創元推理文庫)

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『くもをさがす』(西加奈子)_書評という名の読書感想文

『くもをさがす』西 加奈子 河出書房新社 2023年4月30日初版発

『悪口と幸せ』(姫野カオルコ)_書評という名の読書感想文

『悪口と幸せ』姫野 カオルコ 光文社 2023年3月30日第1刷発行

『昔はおれと同い年だった田中さんとの友情』(椰月美智子)_書評という名の読書感想文

『昔はおれと同い年だった田中さんとの友情』椰月 美智子 双葉文庫 2

『せんせい。』(重松清)_書評という名の読書感想文

『せんせい。』重松 清 新潮文庫 2023年3月25日13刷

『怪物』(脚本 坂元裕二 監督 是枝裕和 著 佐野晶)_書評という名の読書感想文

『怪物』脚本 坂元裕二 監督 是枝裕和 著 佐野晶 宝島社文庫 20

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑