『ペインレス あなたの愛を殺して 下』(天童荒太)_書評という名の読書感想文
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『ペインレス あなたの愛を殺して 下』(天童荒太), 作家別(た行), 天童荒太, 書評(は行)
『ペインレス あなたの愛を殺して 下』天童 荒太 新潮文庫 2021年3月1日発行
少女時代の万浬は教育実習生の詩楠子に “実験” を行い、殺人犯と接触していた。彼女は心に痛みを持たぬことで周囲に波紋を広げていたのだった。万浬に仕える使徒を志願する森悟の弟、英慈。曾根雅雄の身体を食い尽くす病。野宮万浬と貴井森悟の関係に大きな変化が訪れ、物語は衝撃の結末を迎える。『家族狩り』 『永遠の仔』 と並ぶ、天童荒太のサスペンス長篇。全面改訂による、文庫完全版。(新潮文庫)
曾根雅雄74歳。彼は既に死の間際にいます。診察のため、雅雄の自宅を訪ねた万浬に、彼は奇妙な依頼をします。「若い頃に体験した特別な痛みを、薬の調整によって、追体験させてほしい」 「痛みを取り切らずに、ある特別の痛みを探してほしい」 というものでした。
その意味するところを正しく理解するには、時間の掛かる詳細で丁寧な説明を聞く必要がありました。話は、雅雄と雅雄の妻・美彌との出逢いの場面まで遡ります。そして、現在の二人を二人たらしめた謎の人物・藤都亜黎との一部始終に至ります。事の発端の一部を紹介しましょう。語り手は妻の美彌。万浬は畢竟この話を聞くために曾根邸へ通っています。
着いたのは、以前とは異なる別荘地の林のなかに建つ、立派な邸宅です。
わたしと曾根は、それぞれ部屋を与えられ、亜黎に悦びを授けられたのち、前回と同じ行為をするように求められました。指定された暖炉のある大広間には、美術フロアのときのような特別な仕掛けはなく、サングラスやアイマスクで顔の一部を隠した人々が、わたしたちを遠巻きに囲んでいました。
恥ずかしさはもう感じません。亜黎と会えたことが何より嬉しかったし、彼に呼ばれたことによって自分が選ばれた存在であるという自覚が生じ、選ばれ得ない人々に、自分たちの美しさの一端を教示しているのだという誇りさえ抱いていたのです。
(中略)
ほどなく人々の前でも、亜黎にムチで打たれるようになりました。
打たれたあと、わたしと曾根が慰め合い、ついには亜黎が加わって、三人のからだがつながり合った上で、さらに亜黎が打つという特異な性愛の形は、ことに見る者を興奮させるらしいことが周囲の雰囲気から伝わってきました。わたしたちは、これらの行為を、場所を替えながら、ときには鑑賞者の興奮した息づかいが肌に直接感じられる間近さで、繰り返しおこないました。
亜黎の世界は、なんて痛みにあふれているのかと感じていたけれど、平穏と思っていた元の世界にこそ、あらゆる痛みの源が潜んでいると、次第に気づかされました。
人々は哀れなほど痛みにからみつかれている。不当にあしらわれ、不平等な扱いを受け、裏切られ、尊厳を踏みにじられて、ときに殺される・・・・・・・。レベルの差はあるにしても、誰もが日常的に痛みを感じ、痛みの予感におびえて暮らしている。その反動として、不幸な他者には無関心となり、自分のささやかな幸福が奪われないかとびくびくしている。亜黎の世界にいると、元の世界はなんて野蛮なのだろうと感じました。(本文より)
途中、亜黎は二人に対し、
「雅雄、美彌、おまえたちは死ぬまで死ぬなよ」 と言ったのでした。
出会った最初、曾根は万浬に、怪訝な様子でなぜ医者になどなったのかと訊ねます。
万浬 「欲しいものが、こちらの世界にあるからです」
曾根 「何だね」
万浬 「痛みです」
曾根 「欲しいとは、だから、どうすることかね」
万浬 「すするんです。生き血をすするように、人の痛みをすすります」
曾根 「なるほど・・・・・・・すすって、どうするね」
万浬 「選別します。早々に取り除いたほうがいい無駄な痛み。人格とからみついて、取り除けば、その人らしさが失われかねないため、様子を見ていたい痛み。痛みにすでに呑み込まれていて、痛みを取ると、その人の命さえ奪ってしまいかねない痛み」
つまりは - 人は痛みに支配されている。心に痛みを感じない自分をして、万浬はそう思うのでした。それを立証するために、既に彼女は何人もの人間を対象に、痛みについての “実験” を繰り返しています。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆天童 荒太
1960年愛媛県松山市生まれ。
明治大学文学部演劇学科卒業。
作品 「孤独の歌声」「家族狩り」「永遠の仔」「悼む人」「歓喜の仔」「包帯クラブ」他多数
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