『李歐』(高村薫)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/14 『李歐』(高村薫), 作家別(た行), 書評(ら行), 高村薫

『李歐』高村 薫 講談社文庫 1999年2月15日第一刷

その事件は、『大阪で暴力団抗争5人死亡』といった見出しをつけて、大きく新聞に報じられます。そこでは、趙文礼は、銀楼と呼ばれる貴金属商兼金融業者で台湾国籍の「陳浩(チェンハオ)」と記され、在阪の広域暴力団系列の企業と共同出資で、台北にホテルを建設する話を進めていた、となっています。

事件当夜に被害者たちと同伴していた笹倉文治や守山耕三の名前は、記事には出ていません。当夜の「陳浩」の用件がホテルの建設の話であったというのなら、そんな席に守山耕三がいたのは、いかにも不自然なことだと言わざるを得ないのです。
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新聞報道はごく一部の事実だけを伝えるのみで、肝心なところは隠し、その上巧妙に書き換えられています。犯人をはじめ、事件の背後関係も一切分かっていないと報じ、いたずらに社会不安を煽るだけの内容で終わっています。

現場は、新地1丁目にある会員制高級クラブの「ナイトゲート」。そこへ「陳浩」の秘書の呉惠安と名乗る人物から電話が入ります。「陳浩が来ているはずだ。急ぎの用があるので呼んで下さい」と言われ、「陳浩」に取り次いだ直後、店内は銃声に包まれます。

電話を取り次いだのは、アルバイトの吉田一彰。彼は大阪大学の学生で、中国語が解ります。それがために電話を代わってくれと頼まれたのですが、実は一彰にとってこの筋書はあらかじめ決められた、予定通りの行動です。僅かですが、彼は事件に加担しています。
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この『李歐』という小説は、ご存じの方も多いと思いますが、高村薫の別の作品『わが手に拳銃を』を下書きにして、新たに書き下ろされた作品です。

かなりの長編です。全編を網羅して説明することは出来ませんので、まず話の発端となる事件の概要を書いてみました。実はこの中に、『李歐』の主たる登場人物のほとんどがいます。それを、順を追って紹介したいと思います。

まずは、吉田一彰。母の昭子が大蔵省の役人だった夫と別れ、東京から夜逃げのようにしてやってきたのが大阪で、暮らし始めたのが西淀川の姫里にある小さなアパートでした。そのアパートのすぐ裏手にあった工場の庭と隣の教会が、幼い一彰の遊び場になります。

裏手の工場の経営主が、守山耕三。守山は腕のいい旋盤工で、早朝から日暮れまで旋盤を動かしています。魅入られるように守山の姿を眺めるうちに、やがて一彰は工場に入り浸りとなり、それが生活の一部となり、工員たちからは「ぼん」と呼ばれるようになります。

守山の工場にいた、多くの外国人労働者たち。キム(金)とパク(朴)は韓国人、チョン(鄭)とヤン(梁)は在日朝鮮人、後は中国人のリャオ(廖)、ワン(汪)、チャオ(趙)、オワン(黄)という面々。後に大学生になった一彰は、彼らの消息を訪ね歩きます。

この内、廖は金貸しになり、黄は神戸港で死体となって発見されます。そして、一彰の母・昭子の駆け落ちの相手が趙、「ナイトゲート」で殺害された趙文礼です。6歳の一彰には知る由もありませんが、当時の工場は反共・親共が混交したスパイのねぐらだったのです。

守山耕三は、昼間の仕事とは別に、裏では「拳銃」の密造に手を染めています。この采配をしているのが、貿易商の笹倉文治。笹倉は、死んでも死なないような、裏の世界に通じた百戦錬磨の狸オヤジです。
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小説は、一彰が阪大の4年になって、大学院へ進学するかどうかを決める期限に迫られながらも、現実には何も考えられず無為な毎日を過ごしているところから始まります。ゼミの助手の妻と不倫し、大学とアルバイト先を行き来するだけの自分に鬱々としています。

そんな日々の途中で、彼は「李歐」と出会います。李歐は「鈴木」と称して、「ナイトゲート」にディーラーのアルバイトとして潜り込むのですが、一彰はその前に、そうとは知らずに彼と出会います。クラブの仕事が終わり、裏口を出たときのことでした。

この時の一彰の、まだ名前も、素性も知らない若者に感じた印象の、みごとな描写を紹介させてください。明らかに、一彰が「李歐」に一目惚れするシーンです。

一彰が見ている間に、その腕は指先まで一直線になって虚空に立ったかと思うと、天を仰ぐ五本の指がゆっくりとばらけていった。その一本一本が生きもののようにしなり、揺れながら、弧を描いて絡み合うと、そこには何かの調べとリズムが流れ出して、それが手首へ肘へ肩へと伝わっていく。闇を泳ぐ白い手指と黒い腕の、それだけの動きだけでも息を呑むほど美しかった。

男の腕も足も、まるで生きている蛇だった。たおやかで鋭く、軽々として力強く、虚空を次々に切り取っては変幻する。それが天を突く槍に化け、波うつ稲穂へ、湖面のさざ波へ移ろっていく。

まるで京劇の舞踏のようだと思い、すぐに一彰はそれも忘れて、自分の眼前で艶やかにうねる身体の彼方に、ふいに広大な空間が広がっていくのを見、そこを吹き抜けていく大陸の風を見たような思いにとらわれて、密かに放心するのでした。
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一彰が本当の名前を訊ねても、じらすばかりで、李歐はなかなか答えてくれません。挙句に、美しい北京語で「惚れたって言えよ」という始末です。

そんなことは、もうとうの前から分かっているのに。

李歐という歓喜。暴力や欲望の歓喜。友だちという歓喜。そして、常道を逸していくという歓喜に、一彰は溢れています。2人は、同じ22歳。ともに、はるか遠くに霞む大陸を思っています。

この本を読んでみてください係数  90/100


◆高村 薫
1953年大阪市東住吉区生まれ、吹田市に在住。
同志社高等学校から国際基督教大学(ICU)へ進学、専攻はフランス文学。

作品 「マークスの山」「照柿」「太陽を曳く馬」「冷血」「リヴィエラを撃て」「黄金を抱いて翔べ」「わが手に拳銃を」「新リア王」「太陽を曳く馬」「晴子情歌」「半眼訥訥」など多数

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