『きみのためのバラ』(池澤夏樹)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/10
『きみのためのバラ』(池澤夏樹), 作家別(あ行), 書評(か行), 池澤夏樹
『きみのためのバラ』池澤 夏樹 新潮文庫 2010年9月1日発行
予約ミスで足止めされた空港の空白時間、唱えると人間の攻撃欲がたちまち萎える不思議なことば、中米をさすらう若者をとらえた少女のまなざしの温もり。微かな不安と苛立ちがとめどなく広がるこの世界で、未知への憧れと、確かな絆を信じる人人だけに、奇跡の瞬間はひっそり訪れる。沖縄、バリ、ヘルシンキ、そして。深々とした読後の余韻に心を解き放ちたくなる8つの場所の物語。(新潮文庫)
ホームには人があふれていた。窓をずっと見て、諦めて、戻ろうとすると、ホームの隅にバラを売っている男がいた。素焼きの壺に黄色いバラばかりを数十本入れて、その前に黙って立っている。それでもバラが売り物だということは一目でわかる。首都に行く人が買うおみやげなのだろう。(P233)
異国で出会った黒い目をした見知らぬ少女との出会い。
「DFに行くの? 」 と訊くと、「そうよ、あなたは? 」 と訊き返したので、彼は 「ぼくも」 と答え、きれいな顔だ、と思った。名前を尋ねると、彼女はレメディオスだと言った。
この国では首都の地域をDFと呼び、彼もまたそこへ向かおうとしている汽車のホームでのことだ。少女と別れたあと、彼は1本のバラを買う。別れたばかりの少女に、バラを渡そうと思いついたのだ。
混雑する車内を何両か分人をかき分けるように進むと、いきなり彼女の顔が視野に飛び込んできた。三つ目の座席の通路側にこちらを向いて座っている。彼女の方も彼を見つけて笑った。車座になった三人の少年たちの真ん中に足を踏み入れて一歩進み、レメディオスの前に立つ。隣ではおばあちゃんがうつらうつらしている。
「Una rosa para ti きみのためのバラ」 と言って、黄色い花を彼女に差し出した。
「グラシアス ありがとう」 そう言ってレメディオスはバラを受け取った。
そこで突然、彼には言うことがなくなった。その場に立ってもっと話をすることもできたはずだ。DFでの彼女の住所を聞き出したり、時間と場所を決めてまた会う約束をしたりもできたはずだ。だが、なぜかバラを渡したらそれでいいのだという思いが心を満たした。
じっと顔を見て、これから百年でも忘れないという気持ちで彼女の顔を見て、「アスタ・ルエゴ またね」と小さな声で言って背を向け、ここまで辿ってきた困難な道を戻りはじめた。(表題作 「きみのためのバラ」 より)
※この作品で綴られているのは、旅先での男と見知らぬ少女の出会いと、その少女に男が花を渡すという、たったそれだけのことです。
他にも、こんな話ばかりが書いてあります。そこには、伝え切れない、しかし確かに感じる (人と人とに生じる) 温度のようなものが描かれています。
「この静かな短編集には、言葉にならないものばかりが書かれている。」「言葉にならないものが、それでも言葉で描かれているのだ。」(鴻巣友季子氏による解説の冒頭)
この本を読んでみてください係数 85/100
◆池澤 夏樹
1945年北海道帯広市生まれ。
埼玉大学理工学部物理学科中退。
作品 「ステイル・ライフ」「母なる自然のおっぱい」「マシアス・ギリの失脚」「花を選ぶ妹」「言葉の流星群」「憲法なんて知らないよ」「カデナ」「氷山の南」他多数
関連記事
-
-
『櫛挽道守(くしひきちもり)』(木内昇)_書評という名の読書感想文
『櫛挽道守(くしひきちもり)』木内 昇 集英社文庫 2016年11月25日第一刷 幕末の木曽山中。
-
-
『緋色の稜線』(あさのあつこ)_書評という名の読書感想文
『緋色の稜線』あさの あつこ 角川文庫 2020年11月25日初版 ※本書は、201
-
-
『禁断の中国史』(百田尚樹)_書評という名の読書感想文
『禁断の中国史』百田 尚樹 幻冬舎文庫 2025年11月10日初版発行 ベストセラー作家百田
-
-
『家族じまい』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文
『家族じまい』桜木 紫乃 集英社 2020年11月11日第6刷 家族はいったいいつ
-
-
『EPITAPH東京』(恩田陸)_書評という名の読書感想文
『EPITAPH東京』恩田 陸 朝日文庫 2018年4月30日第一刷 東日本大震災を経て、刻々と変
-
-
『風に舞いあがるビニールシート』(森絵都)_書評という名の読書感想文
『風に舞いあがるビニールシート』森 絵都 文春文庫 2009年4月10日第一刷 第135回直木賞受
-
-
『片想い』(東野圭吾)_書評という名の読書感想文
『片想い』東野 圭吾 文春文庫 2004年8月10日第一刷 十年ぶりに再会した美月は、男の姿をして
-
-
『ノボさん/小説 正岡子規と夏目漱石』(伊集院静)_書評という名の読書感想文
『ノボさん/小説 正岡子規と夏目漱石』(上巻)伊集院 静 講談社文庫 2016年1月15日第一刷
-
-
『晩夏光』(池田久輝)_書評という名の読書感想文
『晩夏光』池田 久輝 ハルキ文庫 2018年7月18日第一刷 香港。この地には、観光客を標的に窃盗
-
-
『錠剤F』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
『錠剤F』井上 荒野 集英社 2024年1月15日 第1刷発行 ひとは、「独り」 から逃れら

















