『きみのためのバラ』(池澤夏樹)_書評という名の読書感想文

『きみのためのバラ』池澤 夏樹 新潮文庫 2010年9月1日発行


きみのためのバラ (新潮文庫)

予約ミスで足止めされた空港の空白時間、唱えると人間の攻撃欲がたちまち萎える不思議なことば、中米をさすらう若者をとらえた少女のまなざしの温もり。微かな不安と苛立ちがとめどなく広がるこの世界で、未知への憧れと、確かな絆を信じる人人だけに、奇跡の瞬間はひっそり訪れる。沖縄、バリ、ヘルシンキ、そして。深々とした読後の余韻に心を解き放ちたくなる8つの場所の物語。(新潮文庫)

ホームには人があふれていた。窓をずっと見て、諦めて、戻ろうとすると、ホームの隅にバラを売っている男がいた。素焼きの壺に黄色いバラばかりを数十本入れて、その前に黙って立っている。それでもバラが売り物だということは一目でわかる。首都に行く人が買うおみやげなのだろう。(P233)

異国で出会った黒い目をした見知らぬ少女との出会い。

「DFに行くの? 」 と訊くと、「そうよ、あなたは? 」 と訊き返したので、彼は 「ぼくも」 と答え、きれいな顔だ、と思った。名前を尋ねると、彼女はレメディオスだと言った。

この国では首都の地域をDFと呼び、彼もまたそこへ向かおうとしている汽車のホームでのことだ。少女と別れたあと、彼は1本のバラを買う。別れたばかりの少女に、バラを渡そうと思いついたのだ。

混雑する車内を何両か分人をかき分けるように進むと、いきなり彼女の顔が視野に飛び込んできた。三つ目の座席の通路側にこちらを向いて座っている。彼女の方も彼を見つけて笑った。車座になった三人の少年たちの真ん中に足を踏み入れて一歩進み、レメディオスの前に立つ。隣ではおばあちゃんがうつらうつらしている。

Una rosa para ti きみのためのバラ」 と言って、黄色い花を彼女に差し出した。
「グラシアス ありがとう」 そう言ってレメディオスはバラを受け取った。

そこで突然、彼には言うことがなくなった。その場に立ってもっと話をすることもできたはずだ。DFでの彼女の住所を聞き出したり、時間と場所を決めてまた会う約束をしたりもできたはずだ。だが、なぜかバラを渡したらそれでいいのだという思いが心を満たした。

じっと顔を見て、これから百年でも忘れないという気持ちで彼女の顔を見て、「アスタ・ルエゴ またね」と小さな声で言って背を向け、ここまで辿ってきた困難な道を戻りはじめた。(表題作 「きみのためのバラ」 より)

※この作品で綴られているのは、旅先での男と見知らぬ少女の出会いと、その少女に男が花を渡すという、たったそれだけのことです。

他にも、こんな話ばかりが書いてあります。そこには、伝え切れない、しかし確かに感じる (人と人とに生じる) 温度のようなものが描かれています。

この静かな短編集には、言葉にならないものばかりが書かれている。」「言葉にならないものが、それでも言葉で描かれているのだ。」(鴻巣友季子氏による解説の冒頭)

 

この本を読んでみてください係数 85/100


きみのためのバラ (新潮文庫)

◆池澤 夏樹
1945年北海道帯広市生まれ。
埼玉大学理工学部物理学科中退。

作品 「ステイル・ライフ」「母なる自然のおっぱい」「マシアス・ギリの失脚」「花を選ぶ妹」「言葉の流星群」「憲法なんて知らないよ」「カデナ」「氷山の南」他多数

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