『火車』(宮部みゆき)_書評という名の読書感想文
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『火車』(宮部みゆき), 作家別(ま行), 宮部みゆき, 書評(か行)
『火車』宮部 みゆき 新潮文庫 2020年5月10日87刷
ミステリー20年間の第1位 (1988 - 2008) ベスト・オブ・ベスト 国内編
休職中の刑事、本間俊介は遠縁の男性に頼まれて彼の婚約者、関根彰子の行方を捜すことになった。自らの意思で失踪、しかも徹底的に足取りを消して - なぜ彰子はそこまでして自分の存在を消さねばならなかったのか? いったい彼女は何者なのか? 謎を解く鍵は、カード社会の犠牲ともいうべき自己破産者の凄惨な人生に隠されていた。山本周五郎賞に輝いたミステリー史に残る傑作。(新潮文庫)
こんな一文が目を惹きました。
店を出ると、銀座の裏通りの、華やかな夜の姿とはまた違った顔が出迎えてくれた。妙に自転車が目につき、ゴミの山がそこここに積まれている。夜、この街の無数の店が懸命に吸い込んだ金が、昼の今頃には銀行に落ち着いてしまい、だからそのせいなのだろう、昼間の銀座は、気やすい街になる。
金の軛 (くびき) は、街の足首にさえ巻きつくことができる。ましてや人のそれには、どれほどに強く絡みつくことか。とらえられた人間が、そのまま干涸びて死んでゆくまでか。それとも、必死の刃をふるって足首を切り落とし、逃げてゆくまでか。(P236)
- 先生、どうしてこんなに借金をつくることになったのか、あたしにもよくわかんないのよね。あたし、ただ、幸せになりたかっただけなんだけど。
五年前、自己破産の手続きを始めて、負債の増えてゆく経過を文書にして書いたとき、溝口弁護士に対し、依頼人である関根彰子はそう言ったのでした。
彼女は何も法外なことを望んだわけではありません。欲しかったのは、むしろ些細なものでした。それでも、才能や学歴や、あるいは容姿について - 何ら特別なものを持たない彼女にとって、それは生きる上での矜持となるべきはずのものでした。
どこで道を間違えたのか? どこかで引き返すことは出来なかったのか? 彰子にはそれがわかりません。
この小説には、彰子に似たもう一人の人物が登場します。彰子と同様、彼女もまた生きて地獄を見ます。テーマはずばり、カード社会における 「多重債務による自己破産」 と、金に絡め捕られた人生の、切なすぎる 「顛末」 です。
オウム真理教が地下鉄サリン事件を起こし、その恐ろしさが喧伝された時、なるほどと思った情報が一つあった。それは、山梨県上九一色村のあのサティアンにいる信者たちの中には、多重債務者が多いという情報だった。
取り立てをするヤクザたちも、薄気味悪くて、あの中には入れなかっただろう。そのためか、カード破産した者やそれに近い者たちがオウム信者となって、あそこに逃げ込んだというのである。クレジットという近代と、オウムという前近代が不思議な結びつきをする。それが現代日本である。
その地下の流れともいうべきものを描いて、この作品は酩酊するような読みごたえがある。これを読んだ時、私は直木賞受賞まちがいなし、と思った。
残念ながら、その予想ははずれてしまったが、それは多分、選考委員が経済小説的部分を理解できななかったからだろう。おカネのことがわからずして現代は描けない。それをスリリングなストーリーに溶かし込んで見事に描き切った宮部の手腕には舌を巻く。(後略)私は 「50冊のフィクション」 を選んで解説した 『戦後を読む』 (岩波新書) に 『火車』 を挙げ、「自分の過去を消し、他人になろうとしてなりきれなかった女たちを描いて、この小説は哀切である」 と書いた。そして、「ローン地獄に落ちる人など、自分とは無縁だと思っている人でも、『火車』 を読めば、きっと、そうした人を身近に感じるだろう。そして、現代の日本にパックリと口をあけている、その地獄の淵の深さに戦慄するに違いない」 と結んだ。
深い淵に落ちないために、この作品を読んでほしいという思いは、いよいよ強い。(平成9年12月、佐高信/解説より)
※この作品の初版単行本は平成4年 (1992年) 7月、双葉社より刊行されました。
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◆宮部 みゆき
1960年東京都江東区生まれ。
東京都立墨田川高等学校卒業。
作品 「我らが隣人の犯罪」「魔術はささやく」「蒲生邸事件」「理由」「模倣犯」「名もなき毒」「過ぎ去りし王国の城」他多数
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