『マザコン』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『マザコン』角田 光代 集英社文庫 2010年11月25日第一刷


マザコン (集英社文庫)

 

この小説は、大人になった息子や娘たちの、母親への様々な想いを描いた8編からなる短編集です。女性であって女性でない、もはや〈母〉としか呼び様のない摩訶不思議な存在。そんな母にも「母になる前の母」がいて、「母をやめた後の母」がいるのです。

『マザコン』は、母という存在の不可解さを娘や息子、あるいは息子の妻といった複数の視点から描いています。その中でも、角田光代がとりわけ強く意識したのは母と娘の関係です。それは何とも濃密で、その分疎ましい関係でもあるのです。
・・・・・・・・・・
私の好きな1編、第二話の「雨をわたる」を紹介します。

60歳を過ぎた母が、海外に移住すると言います。それはまさしく宣言で、兄と私が報告を受けたのは、すべての算段を終えて何もかもを決めた後のことでした。

母は外国に行ったことがただの一度もありません。しかも、極度の潔癖性です。そんな母が、マレーシアでもシンガポールでもない、フィリピンに移住すると言うのです。
・・・・・・・・・・
フィリピンの雨はまるで油みたいにねっとりとして、べたべたと体にまとわりつきます。隣に立つ母は、黒い髪が頬と首にはりついて、血管が透けるほど白い肌に、雨か汗か分からない水滴がゆっくりと流れ落ちていきます。

その老いた姿が、写真でさえも見たことのない少女期の母と重なります。それは、たじろいでしまうくらいにくっきりと重なって見えます。母は美しい少女だったのかも知れない、と思いながら私は母を眺めています。

雨はいっこうにやむ気配がないのに、「そう思うでしょ? それがね、ころっとやむの。おしゃぶりをもらった赤ん坊みたいにころっとやんじゃうの。ほら青空が見えてるじゃない」-この町のことなら何でも知っていると言わんばかりの口ぶりで、母はそう言うのでした。

スーパーで売られている品物について母が愚痴るかと思いきや、母は一切否定的な発言をしません。店ではいかに多くの日本食材が売られているか、知り合いの日本人がいかによくしてくれるかを、まるで自分の手柄のように話します。

私は、母の生活を知ってから言いようのない苛立ちを感じ始めています。母は、この島で決まったところしか移動せず、必要なもの以外は何も見ず、そこからはみ出さずに閉じこもって暮らしています。しかし、音をあげて帰国するような素振りは微塵もありません。

口を開けばこの島を褒め、ここへ来て正解だったと繰り返します。日本にいるときは話すことのほとんどが愚痴と呪詛だった母の変貌ぶりに、本当は喜んでいいはずなのに、なぜか私は苛立っています。

一緒に行った日本人会の人々も母と同じように島を褒め、島の暮らしを賛美します。メンバーは家族みたいなもの、第二の人生、第二の家族だと言って笑います。「袖振り合うも他生の縁、ってことよね」と元教師が真顔で頷く様子に、またもや私は苛立っているのです。
・・・・・・・・・・
では、母がどんなふうに暮らしていたら私は苛つくことなく満足したのだろうと考えてみます。日本食材を売るスーパーではなく、濁った血が流れ蠅が飛び交う市場で買い物をしていたら、日本料理店の天ぷらではなく、冷房のない食堂で地元の料理を注文していたら、

片言の現地語で屋台の店主と笑い合っていたら、島に偏在する貧しさに嘆き、窓を全開にして走るバスの排気ガスを呪詛しながら遠出していたら、網戸にはりつく気味の悪い模様の蛾に辟易していたら、きっと私は満足しただろうと思うのです。

私がフィリピンに来たのは、そういう母を見たかったからでした。フィリピンに来てからも、母の暮らす場所にたどり着いたという気がしません。母はどこでもない場所にいる・・・、ここ数日ふくれあがる苛立ちが、そのせいだと私は気付きます。
・・・・・・・・・・
サラザール通りで雨に打たれながら、母は見知らぬ人を見るように私を見つめています。その視線のせいで、母もまた見知らぬ人に見えます。近寄り難い老いた母を家のない放浪者のようだと思い、そう思ったことに、私自身がびっくりしています。

母は圧倒的に用無しで、ここにいる理由などなく、遠からず次の場所へ流れていく放浪者のようです。母の目には、私もそう映っているのかも知れません。私は母の視線で、今ここに立つ自分自身を見てみたいと思っています。
・・・・・・・・・・
かつての母が、気がつくと、すでに母をやめた後の母か、やめる間際の母になっています。おそらくそれは、大人になったとは言え、娘には到底受け入れがたい姿です。

母が、母をやめようと思うのは勝手です。しかし、娘に言わせれば、今さらあなたの娘をやめますと言える道理はないのです。

 

この本を読んでみてください係数  85/100


マザコン (集英社文庫)

◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「空中庭園」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「ツリーハウス」「かなたの子」「私のなかの彼女「笹の舟で海をわたる」「幾千の夜、昨日の月」ほか多数

◇ブログランキング

いつも応援クリックありがとうございます。
おかげさまでランキング上位が近づいてきました!嬉しい限りです!
にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ

関連記事

『空中庭園』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『空中庭園』角田 光代 文春文庫 2005年7月10日第一刷 空中庭園 (文春文庫) &

記事を読む

『水声』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『水声』川上 弘美 文春文庫 2017年7月10日第一刷 水声 (文春文庫) 1996年、わ

記事を読む

『村上春樹は、むずかしい』(加藤典洋)_書評という名の読書感想文

『村上春樹は、むずかしい』加藤 典洋 岩波新書 2015年12月18日第一刷 村上春樹は、むず

記事を読む

『203号室』(加門七海)_書評という名の読書感想文

『203号室』加門 七海 光文社文庫 2004年9月20日初版 203号室 (光文社文庫)

記事を読む

『屋根をかける人』(門井慶喜)_書評という名の読書感想文

『屋根をかける人』門井 慶喜 角川文庫 2019年3月25日初版 屋根をかける人 (角川文庫

記事を読む

『アカガミ』(窪美澄)_書評という名の読書感想文

『アカガミ』窪 美澄 河出文庫 2018年10月20日初版 アカガミ (河出文庫) 渋谷で出

記事を読む

『断片的なものの社会学』(岸政彦)_書評という名の読書感想文

『断片的なものの社会学』岸 政彦 朝日出版社 2015年6月10日初版 断片的なものの社会学

記事を読む

『忌中』(車谷長吉)_書評という名の読書感想文

『忌中』車谷 長吉 文芸春秋 2003年11月15日第一刷 忌中   5

記事を読む

『GO』(金城一紀)_書評という名の読書感想文 

『GO』 金城 一紀  講談社 2000年3月31日第一刷 @1,400 GO 金城一紀が好

記事を読む

『金曜のバカ』(越谷オサム)_書評という名の読書感想文

『金曜のバカ』越谷 オサム 角川文庫 2012年11月25日初版 金曜のバカ (角川文庫)

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

『人間タワー』(朝比奈あすか)_書評という名の読書感想文

『人間タワー』朝比奈 あすか 文春文庫 2020年11月10日第1刷

『かか』(宇佐見りん)_書評という名の読書感想文

『かか』宇佐見 りん 河出書房新社 2019年11月30日初版

『希望病棟』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『希望病棟』垣谷 美雨 小学館文庫 2020年11月11日初版

『JR上野駅公園口』(柳美里)_書評という名の読書感想文

『JR上野駅公園口』柳 美里 河出文庫 2017年2月20日初版

『裏アカ』(大石圭)_書評という名の読書感想文

『裏アカ』大石 圭 徳間文庫 2020年5月15日初刷 裏アカ

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑