『マザコン』(角田光代)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/14 『マザコン』(角田光代), 作家別(か行), 書評(ま行), 角田光代

『マザコン』角田 光代 集英社文庫 2010年11月25日第一刷

この小説は、大人になった息子や娘たちの、母親への様々な想いを描いた8編からなる短編集です。女性であって女性でない、もはや〈母〉としか呼び様のない摩訶不思議な存在。そんな母にも「母になる前の母」がいて、「母をやめた後の母」がいるのです。

『マザコン』は、母という存在の不可解さを娘や息子、あるいは息子の妻といった複数の視点から描いています。その中でも、角田光代がとりわけ強く意識したのは母と娘の関係です。それは何とも濃密で、その分疎ましい関係でもあるのです。

私の好きな一編、第二話 「雨をわたる」を紹介します。

60歳を過ぎた母が、海外に移住するといいます。それはまさしく宣言で、兄と私が報告を受けたのは、すべての算段を終えて何もかもを決めた後のことでした。

母は外国に行ったことがただの一度もありません。しかも、極度の潔癖性です。そんな母が、マレーシアでもシンガポールでもない、フィリピンに移住すると言ったのでした。

フィリピンの雨はまるで油みたいにねっとりとして、べたべたと体にまとわりつきます。隣に立つ母は、黒い髪が頬と首にはりついて、血管が透けるほど白い肌に、雨か汗か分からない水滴がゆっくりと流れ落ちていきます。

その老いた姿が、写真でさえも見たことのない少女期の母と重なります。それは、たじろいでしまうくらいにくっきりと重なって見えます。母は美しい少女だったのかも知れない、と思いながら私は母を眺めています。

雨はいっこうにやむ気配がないのに、「そう思うでしょ? それがね、ころっとやむの。おしゃぶりをもらった赤ん坊みたいにころっとやんじゃうの。ほら青空が見えてるじゃない」-この町のことなら何でも知っていると言わんばかりの口ぶりで、母はそう言うのでした。

スーパーで売られている品物について母が愚痴るかと思いきや、母は一切否定的な発言をしません。店ではいかに多くの日本食材が売られているか、知り合いの日本人がいかによくしてくれるかを、まるで自分の手柄のように話します。

私は、母の生活を知ってから言いようのない苛立ちを感じ始めています。母は、この島で決まったところしか移動せず、必要なもの以外は何も見ず、そこからはみ出さずに閉じこもって暮らしています。しかし、根をあげて帰国するような素振りは微塵もありません。

口を開けば島を褒め、ここへ来て正解だったと繰り返します。日本にいるときは話すことのほとんどが愚痴と呪詛だった母の変貌ぶりに、本当は喜んでいいはずなのに、なぜか私は苛立っています。

一緒に行った日本人会の人々も母と同じように島を褒め、島の暮らしを賛美します。メンバーは家族みたいなもの、第二の人生、第二の家族だと言って笑います。「袖振り合うも他生の縁、ってことよね」と元教師が真顔で頷く様子に、またもや私は苛立っています。

では、母がどんなふうに暮らしていたら私は苛つくことなく満足したのだろうと考えてみます。日本食材を売るスーパーではなく、濁った血が流れ蠅が飛び交う市場で買い物をしていたら、日本料理店の天ぷらではなく、冷房のない食堂で地元の料理を注文していたら、

片言の現地語で屋台の店主と笑い合っていたら、島に偏在する貧しさに嘆き、窓を全開にして走るバスの排気ガスを呪詛しながら遠出していたら、網戸にはりつく気味の悪い模様の蛾に辟易していたら、きっと私は満足したのだろうと。

私がフィリピンに来たのは、そういう母を見たかったからでした。フィリピンに来てからも、母の暮らす場所にたどり着いたという気がしません。母はどこでもない場所にいる・・・・・・・、ここ数日ふくれあがる苛立ちが、そのせいだと私は気付きます。

サラザール通りで雨に打たれながら、母は見知らぬ人を見るように私を見つめます。その視線のせいで、母もまた見知らぬ人に見えます。近寄り難い老いた母を家のない放浪者のようだと思い、そう思ったことに、私自身がびっくりしています。

母は圧倒的に用無しで、ここにいる理由などなく、遠からず次の場所へ流れていく放浪者のようです。母の目には、私もそう映っているのかも知れません。私は母の視線で、今ここに立つ自分自身を見てみたいと思っています。

かつての母が、気がつくと、すでに母をやめた後の母か、やめる間際の母になっています。おそらくそれは、大人になったとは言え、娘には到底受け入れがたい姿でした。

母が、母をやめようと思うのは勝手です。しかし、娘に言わせれば、今さらあなたの娘をやめますと言える道理はありません。

この本を読んでみてください係数  85/100


◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「空中庭園」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「ツリーハウス」「かなたの子」「私のなかの彼女「笹の舟で海をわたる」「幾千の夜、昨日の月」ほか多数

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