『トリップ』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『トリップ』角田 光代 光文社文庫 2007年2月20日初版


トリップ (光文社文庫)

普通の人々が平凡に暮らす東京近郊の街。駆け落ちしそびれた高校生、クスリにはまる日常を送る主婦、パッとしない肉屋に嫁いだ主婦 - 。何となくそこに暮らし続ける何者でもないそれらの人々がみな、日常とはズレた奥底、秘密を抱えている。小さな不幸と小さな幸福を抱きしめながら生きる人々を、透明感のある文体で描く珠玉の連作小説。直木賞作家の真骨頂。(光文社文庫)

どこかそぐわない、という感覚。いるにはいるけれど、いるという実感には程遠く、なるべくしてなったのは仕方ないにしても、それでチャラかというとそうはいかない。思うほどには簡単に始末出来ない。人生の - そんな話ばかりが書いてあります。

駆け落ちに失敗した女子高生、薬物中毒の主婦、やさぐれた専業主夫、結婚に倦んだ肉屋の嫁、大学の同級生を追いかけるストーカー、離婚した初老の女、いじめられっ子の少年、ひがみ全開の三十女古書店員、年上の不倫相手が離婚してしまったために結婚せざるを得なくなった若い男、そして・・・・・・・。

『トリップ』の主人公たちは、誰もが、「似合わないのにそこに居なくちゃいけない」みたいな人々だ。(中島京子/解説より)
・・・・・・・・・
結婚し夫も息子もいる「あたし」は、相も変わらずLSDを食べている。現実とそうでないものの境界線が曖昧になると、決まって頭に浮かぶ二つの光景がある。ひとつは「レストラン四季」。もうひとつは名のない、だだっ広い食堂 - いずれもK大学病院の食堂だ。

二つの食堂の違いは、メニューの値段を挙げれば歴然で、四季のハンバーグセットが1800円に対し、地下食堂のカツ丼は420円。「あたし」は二ヶ月ほど、ほとんどすべての食事をこの二つの店のどちらかですませていたことがある。

しかし、おいしいと思えるものはひとつもなかった。何を食べても同じ味、レストラン四季も地下食堂も病院のなかに存在している、ということが致命的だった。病院のなかはどこもかしこも同じにおいがし、それは薬と病の混じり合ったにおいだった。

苦甘い、透明度のない、反省を促すようなにおいで、そのにおいは鼻に栓をするみたいにきつく充満していて、臭覚を狂わせ、舌をしびれさせた。

たったひとりで食事をしながらよく考えた。あたしが選ぶことのできるものなんてあるのだろうかと。あれやこれやを選んだつもりにはなっているけれど、(そのどれもが同じ味なら)何ひとつ選んでいないことと変わりがないのではないかと。

二ヶ月であたしは六キロ太った。七階の個室に入院していた父は、あたしが太ったぶんやせて、それから、あたしを追いかけるように太りはじめ(正確に言えばむくみはじめ)、追い越して太り続けていた。父の病室は、病院内のにおいを五十倍に煮詰めたようなにおいがした。何かが急速に腐りはじめ、何かがその腐敗を止めようとしている、その二つが強烈に混じりあったにおいで、それは細かい雨みたいに、病室のなかのあたしの全身を浸す。

死のにおいだ、とあたしは思った。これが死のにおいだと。そして朝食や夕食にどちらかの食堂にいって、病院のにおいを嗅ぎながら味のしない食品を口にいれ、ゆっくりと咀嚼しながら、あたしは死を食べているのだと思った。死を食べて太り続けている。

そしてこの光景はK大学病院を発端にするすると巻き戻され、中学生だったり小学生だったりする「あたし」を映して、なんだか自分が、あの広い病院で父の死を待つためだけに生まれてきたような、そんな気持ちに「あたし」をさせます。何ひとつの可能性も選択権も持たず、ただ誰かの死を待つために生まれ、成長してきたような。(表題作「トリップ」より)

 

この本を読んでみてください係数  85/100


トリップ (光文社文庫)

◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「空中庭園」「かなたの子」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「笹の舟で海をわたる」「ドラママチ」「それもまたちいさな光」他多数

関連記事

『東京零年』(赤川次郎)_書評という名の読書感想文

『東京零年』赤川 次郎 集英社文庫 2018年10月25日第一刷 東京零年 (集英社文庫)

記事を読む

『乳と卵』(川上未映子)_書評という名の読書感想文

『乳と卵』川上 未映子 文春文庫 2010年9月10日第一刷 乳と卵(らん) (文春文庫)

記事を読む

『闘う君の唄を』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『闘う君の唄を』中山 七里 朝日文庫 2018年8月30日第一刷 闘う君の唄を (朝日文庫)

記事を読む

『図書室』(岸政彦)_書評という名の読書感想文

『図書室』岸 政彦 新潮社 2019年6月25日発行 図書室 あの冬の日、大阪・淀川の

記事を読む

『悪果』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『悪果』黒川 博行 角川書店 2007年9月30日初版 悪果 (角川文庫)  

記事を読む

『それもまたちいさな光』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『それもまたちいさな光』角田 光代 文春文庫 2012年5月10日第一刷 それもまたちいさな光

記事を読む

『ぬるくゆるやかに流れる黒い川』(櫛木理宇)_書評という名の読書感想文

『ぬるくゆるやかに流れる黒い川』櫛木 理宇 双葉文庫 2021年9月12日第1刷 ぬるくゆる

記事を読む

『断片的なものの社会学』(岸政彦)_書評という名の読書感想文

『断片的なものの社会学』岸 政彦 朝日出版社 2015年6月10日初版 断片的なものの社会学

記事を読む

『国境』(黒川博行)_書評という名の読書感想文(その2)

『国境』(その2)黒川 博行 講談社 2001年10月30日第一刷 国境(下) (文春文庫) 羅

記事を読む

『ドアの向こうに』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『ドアの向こうに』黒川 博行 創元推理文庫 2004年7月23日初版 ドアの向こうに (創元推

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。

『夕映え天使』(浅田次郎)_書評という名の読書感想文

『夕映え天使』浅田 次郎 新潮文庫 2021年12月25日20刷

『向日葵の咲かない夏』(道尾秀介)_書評という名の読書感想文

『向日葵の咲かない夏』道尾 秀介 新潮文庫 2019年4月30日59

『ミシンと金魚』(永井みみ)_書評という名の読書感想文

『ミシンと金魚』永井 みみ 集英社 2022年4月6日第4刷発行

『夏の陰』(岩井圭也)_書評という名の読書感想文

『夏の陰』岩井 圭也 角川文庫 2022年4月25日初版

『パイナップルの彼方』(山本文緒)_書評という名の読書感想文

『パイナップルの彼方』山本 文緒 角川文庫 2022年1月25日改版

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑