『トリップ』(角田光代)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/11
『トリップ』(角田光代), 作家別(か行), 書評(た行), 角田光代
『トリップ』角田 光代 光文社文庫 2007年2月20日初版
普通の人々が平凡に暮らす東京近郊の街。駆け落ちしそびれた高校生、クスリにはまる日常を送る主婦、パッとしない肉屋に嫁いだ主婦 - 。何となくそこに暮らし続ける何者でもないそれらの人々がみな、日常とはズレた奥底、秘密を抱えている。小さな不幸と小さな幸福を抱きしめながら生きる人々を、透明感のある文体で描く珠玉の連作小説。直木賞作家の真骨頂。(光文社文庫)
どこかそぐわない、という感覚。いるにはいるけれど、いるという実感には程遠く、なるべくしてなったのは仕方ないにしても、それでチャラかというとそうはいかない。思うほどには簡単に始末出来ない。人生の - そんな話ばかりが書いてあります。
駆け落ちに失敗した女子高生、薬物中毒の主婦、やさぐれた専業主夫、結婚に倦んだ肉屋の嫁、大学の同級生を追いかけるストーカー、離婚した初老の女、いじめられっ子の少年、ひがみ全開の三十女古書店員、年上の不倫相手が離婚してしまったために結婚せざるを得なくなった若い男、そして・・・・・・・。
『トリップ』の主人公たちは、誰もが、「似合わないのにそこに居なくちゃいけない」みたいな人々だ。(中島京子/解説より)
・・・・・・・・・
結婚し夫も息子もいる「あたし」は、相も変わらずLSDを食べている。現実とそうでないものの境界線が曖昧になると、決まって頭に浮かぶ二つの光景がある。ひとつは「レストラン四季」。もうひとつは名のない、だだっ広い食堂 - いずれもK大学病院の食堂だ。
二つの食堂の違いは、メニューの値段を挙げれば歴然で、四季のハンバーグセットが1800円に対し、地下食堂のカツ丼は420円。「あたし」は二ヶ月ほど、ほとんどすべての食事をこの二つの店のどちらかですませていたことがある。
しかし、おいしいと思えるものはひとつもなかった。何を食べても同じ味、レストラン四季も地下食堂も病院のなかに存在している、ということが致命的だった。病院のなかはどこもかしこも同じにおいがし、それは薬と病の混じり合ったにおいだった。
苦甘い、透明度のない、反省を促すようなにおいで、そのにおいは鼻に栓をするみたいにきつく充満していて、臭覚を狂わせ、舌をしびれさせた。
たったひとりで食事をしながらよく考えた。あたしが選ぶことのできるものなんてあるのだろうかと。あれやこれやを選んだつもりにはなっているけれど、(そのどれもが同じ味なら)何ひとつ選んでいないことと変わりがないのではないかと。
二ヶ月であたしは六キロ太った。七階の個室に入院していた父は、あたしが太ったぶんやせて、それから、あたしを追いかけるように太りはじめ(正確に言えばむくみはじめ)、追い越して太り続けていた。父の病室は、病院内のにおいを五十倍に煮詰めたようなにおいがした。何かが急速に腐りはじめ、何かがその腐敗を止めようとしている、その二つが強烈に混じりあったにおいで、それは細かい雨みたいに、病室のなかのあたしの全身を浸す。
死のにおいだ、とあたしは思った。これが死のにおいだと。そして朝食や夕食にどちらかの食堂にいって、病院のにおいを嗅ぎながら味のしない食品を口にいれ、ゆっくりと咀嚼しながら、あたしは死を食べているのだと思った。死を食べて太り続けている。
そしてこの光景はK大学病院を発端にするすると巻き戻され、中学生だったり小学生だったりする「あたし」を映して、なんだか自分が、あの広い病院で父の死を待つためだけに生まれてきたような、そんな気持ちに「あたし」をさせます。何ひとつの可能性も選択権も持たず、ただ誰かの死を待つために生まれ、成長してきたような。(表題作「トリップ」より)
この本を読んでみてください係数 85/100
◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
作品 「空中庭園」「かなたの子」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「笹の舟で海をわたる」「ドラママチ」「それもまたちいさな光」他多数
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