『照柿』(高村薫)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/13 『照柿』(高村薫), 作家別(た行), 書評(た行), 高村薫

『照柿』高村 薫 講談社 1994年7月15日第一刷

おそらくは、それこそが人生の巡り合わせとしか言い様のない、ふたつの、因果な偶然が続けて起こります。

ひとつは、雄一郎が美保子という女に出会ってしまったということ。本文では直截的な表現は一切ありませんが、美保子をみとめた一瞬に、雄一郎は激しく動揺し、そして恋に落ちます。それは実に鮮やかな一目惚れでした。

雄一郎は、捜査の途中でたまたま降り立った(JR青梅線) 拝島駅のホームで飛び込み事故に遭遇します。ホームで男女が揉み合った挙句に女が電車に轢かれて亡くなってしまうのですが、その場にはもう一人の女がおり、それが美保子でした。

轢死した女は男の愛人で、美保子は男の妻でした。最初はよくある痴話喧嘩の果ての飛び込み事故だと考えられていたのですが、美保子と美保子の夫・敏明との歪な夫婦関係が明らかになるにつれ、単なる事故が、殺意を孕んだ 「事件」 へと変貌します。

ふたつ目 - それからしばらくの後、またもや雄一郎は美保子と遭遇します。その時、彼女と一緒にいたのが、こともあろうに、かつて幼い頃兄弟のようにして遊んだ野田達夫という男でした。美保子と達夫は同じ加美平団地にいて、昔付き合っていた者同士です。

雄一郎と達夫は、東京駅の新幹線中央乗換口手前にある喫茶店 《銀の鈴》 で、18年ぶりに出会います。2人は元々大阪東住吉区の矢田で生まれ育ち、達夫は家の事情で16歳まで雄一郎の家で暮らした仲でした。2人は1歳違い、兄弟のようにして育ちます。

達夫は大手の金属加工会社の羽村工場に勤め、熱処理工程の工程長代理をしています。かれこれ17年という月日が経過しているのですが、かつて矢田にいた頃の達夫は学校へも行かず、西成などをうろついては繰り返し補導されるという、どうしようもない少年でした。

それが今では更生して結婚もし、息子までいます。聞けば妻は中学校の教師だと言い、雄一郎を驚かせます。一方達夫は、父親と同じ警察官には絶対ならないと言っていた雄一郎が、本庁に籍を置く現職刑事であることにしばし唖然とします。

雄一郎は被疑者に面会するため、達夫は父親の葬儀のために、同じ大阪へ行こうとする間際のことでした。部下が来たのを機に席を立った雄一郎は、新幹線の乗換口に向かう階段付近にいます。と、ここまでは何ほどもないのですが、この後雄一郎の様子が一変します。

十数分前とは打って変わった激情の色をその顔に塗り重ね、雄一郎は改めて達夫を見つめています。それに気付いた達夫も雄一郎を凝視します。訳がわからないまま目が遇うと、途端に雄一郎は身を翻し、乗降口の方へと姿を消してしまいます。

「結局、雄一郎が見ていたのは、自分ではなく美保子の方だろう」- 雄一郎と入れ違いに店に来た美保子を見て、達夫はそう思うのでした。
・・・・・・・・・・・・・・
この時点で、雄一郎はどうすることもできないわが身を呪い、達夫に対する激しい嫉妬に駈られています。達夫は達夫で - 雄一郎は美保子を知っている、それも我を忘れて立ち尽くすような知り合いなのだ - そう思い、次第に猛烈な悪意が突き上げてきます。

ここで書き添えておくべきは、時の達夫の心情です。彼はこの時、身体の中で何かが鳴るのを聞きます。澱みながらゆるゆる流れてきた血が、いっせいに突沸し、噴き出す音です。偶然だろうが運命だろうが、嫉妬という感情は突然現実のものになる -

達夫にとっては、それは耳が聞こえないほどの血のざわめきになって現れるのが常で、物心ついたころから、そうして沸き立つ血の感触を何度も味わってきた覚えがあります。今またそれがやって来たのを確信し、何かぞくぞくするような卑猥な興奮すら感じています。

この時達夫が抱いたもののほとんどは、紛れもなく雄一郎に向けた嫉妬です。しかし、彼の身に湧き上がった激情のすべてがそうかといえば、必ずしもそうではありません。別に抱える、達夫自身にさえ上手く説明できない内実があります。

この頃の達夫は特にそうなのですが、今ある現実に対してすべからく「異質」な何かを感じ、強い焦燥感を抱いています。それなりに安定した親子3人での暮らし、灼熱地獄の熱処理棟で昼夜を分かたず炉と向き合う毎日 - 粛々と受け入れてきたはずのそれらが、ふと現実のことではないように感じるときがあります。
・・・・・・・・・・・・・・
そのとき、雄一郎もまた苦悩の果てにいます。彼の抱える強盗殺人事件は発生から2ヶ月経った今も目ぼしい進展がないままで、雄一郎が信じて疑わない容疑者がいるにはいるのですが、捜査本部はそれを善しとせず、決定的な証拠を挙げられずにいます。

延々と続く地どり捜査、一つ違えば辞職に追いやられるような危ない橋を渡り、身銭をはたいてやくざの賭場へも出かけるのですが、すぐに成果に繋がるとは限りません。別れた妻・貴代子のことを不意に思い出したり、時々自分が何をしたいのかわからなくなります。

達夫と雄一郎は今、同じ景色を見て思うことがあります。達夫にとってのそれは、熱処理棟の炉に浮かぶ濃い臙脂色に艶と深い輝きを加えた、一種独特の色。雄一郎にしてみれば、美保子がいた拝島駅で見た、青梅線の古い車両が西日を浴びて輝く車体の臙脂・・・・・・・

いずれも、色の名前は 「照柿」- そういえば幼い日、2人は別々に、この色と同じ景色を見たことがあります。

この本を読んでみてください係数  90/100


◆高村 薫
1953年大阪市東住吉区生まれ。
同志社高等学校から国際基督教大学(ICU)へ進学、専攻はフランス文学。

作品 「マークスの山」「太陽を曳く馬」「李歐」「リヴィエラを撃て」「黄金を抱いて翔べ」「わが手に拳銃を」「新リア王」「太陽を曳く馬」「晴子情歌」「空海」など多数

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