『妻は忘れない』(矢樹純)_書評という名の読書感想文
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『妻は忘れない』(矢樹純), 作家別(や行), 書評(た行), 矢樹純
『妻は忘れない』矢樹 純 新潮文庫 2020年11月1日発行
葬儀の晩に訪れた、前妻 - 。急速に距離をつめる、ママ友。私はいずれ、夫に殺されるかも知れない。日本推理作家協会賞短編部門受賞 (『夫の骨』) 後第一作!
私はいずれ、夫に殺されるかもしれない。義父の弔問に訪れた前妻の佑香。夫は彼女とよりを戻したのではないだろうか。苦悩が募る中、通勤バッグにある物を発見してしまう (表題作)。日常を一本の電話が切り裂いた。大学生の息子哲生から元交際相手傷害事件について話を聞いている。刑事がそう告げたのだ (戻り梅雨)。平凡な家庭に潜む秘密を鮮やかに浮かび上がらせる、五篇の傑作ミステリ。(新潮文庫)
[目次]
1.妻は忘れない
2.無垢なる手
3.裂けた繭
4.百舌鳥の家
5.戻り梅雨
独断と偏見で選んだ私の一押し - 「裂けた繭」
本書では異色の、どちらかといえば非日常の方向に振り切った作風だ。出だしからして不穏な印象であり、そこから暗転に暗転を重ねて凄惨な展開に至るのだが、ミステリとしての大胆なサプライズも、その凄まじさに輪をかけている。読み心地の怖さにおいては本書でも随一と言えるだろう。(解説より)
女性を軸とした作品が多い本書では例外的に、「裂けた繭」 は誠司という引きこもりの青年を主人公にしています。母親と二人暮らしの彼は、自室に南京錠をかけ、母親を中へは一歩も入れさせません。勝手に入れば殺すと宣言しています。
引きこもり中、彼の唯一の話し相手が中学時代に創作した 《みゆな》 と名付けた架空の女友達でした。ストレスが昂じると、誠司の中には決まって 《みゆな》 が現れます。声が一段高くなり、《みゆな》 になった誠司がもとの誠司に優しく語りかけるのでした。
「俺、こんなことしてて、大丈夫なのかな」
「誠司は悪くないよ。仕方なかったんだから」
宙を見つめていた誠司の目が、暗い光を帯びた。布団の方に手を伸ばすと、ティッシュペーパーの箱を引き寄せる。
引き出したティッシュペーパーを半分に千切ると、固く丸めて両方の鼻に詰める。それから顔を自分の肘の内側に押しつけ、匂いを感じないことを確かめた。
こたつのノートパソコンの隣に置いてある医療用のゴーグルとマスクをつけ、決意したように立ち上がると、床に散乱したごみ袋を足を使って端に寄せ、半畳ほどの空間を作る。部屋の奥へ進み、大きく息を吸ってから、テレビの向かい側の壁のクローゼットの扉を開けた。
扉の取っ手を摑んだまま、「うえっ」 と誠司がマスクの中でくぐもった声を漏らす。
室内のゴミと排泄物の匂いに甘ったるい芳香剤の香りが混じり、続いて魚の血やはらわたを腐らせたような強烈な匂いが漂ってきた。
先ほど、出勤前の母親が誠司に言いたかったのは、この件だろう。
誠司はその場にしゃがみこむと、背中を丸めて何度もえずいた。ようやく顔を上げ、ゴーグルをずらして服の袖で涙を拭うと、クローゼットの中の毛布で包まれた塊に手を伸ばす。
毛布の端がめくれ、無精ひげに覆われた青白い男の顔があらわになった。
開いたままのまぶたから覗く眼球は、膜がかかったように濁り、水分を失ってしぼんでいた。(二章へ続く)
誠司の部屋のクローゼットの中には、なぜか一人の男の死体が転がっています。解体され、残っているのは頭部だけになっています。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆矢樹 純
1976年青森県青森市生まれ。
弘前大学人文学科卒業。
作品 「夫の骨」「Sのための覚え書き かごめ荘連続殺人事件」「がらくた少女と人喰い煙突」等
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