『綺譚集』(津原泰水)_読むと、嫌でも忘れられなくなります。
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『綺譚集』(津原泰水), 作家別(た行), 書評(か行), 津原泰水
『綺譚集』津原 泰水 創元推理文庫 2019年12月13日 4版
散策の途上で出合った少女が美しく解剖されるまでを素描する 「天使解体」、白痴の姉とその弟が企てる祖父殺し 「サイレン」、凌辱された書家の女弟子の屍体が語る 「玄い森の底から」 等、妖美と戦慄が彩る幻想小説や、兎派と犬派に分かれた住民たちの仁義なき闘争を綴る 「聖戦の記憶」 の黒い笑い、失われた女の片脚を巡る 「脛骨」 の郷愁、ゴッホの絵画を再現した園に溺れゆく男たちの物語 「ドービニィの庭で」 の技巧等々。文体を極限まで磨き上げた十五の精華を収める。孤高の鬼才による短篇小説の精髄。(創元推理文庫)
[サイレン]
幾子から祖父殺害の企てを聞かされた公太朗は、この半年のあいだ彼女の内面をプランクトンのようにうようよと満たしてきた悪意が感情の食物連鎖の果てに殺意の怪魚をよびよせるに至ったことへの快哉とともに、その奇蹟を孕んで平然としている姉の澱んだ内海のように豊饒な肉体にいつか自分自身も嚥下されるに違いないという予感を得る。予感は少年の腰骨の内部にすばやく堆積してじんじんという疼痛に変わる。
幾子が笑ってブラウスに包まれた乳房を弟の背中におしつける。中途半端に日灼けした手が彼の脇腹を滑ってズボンの前のあわせめに達する。柔らかい掌が陽物の腹を上下する。その屈託ない動作は無垢な性衝動とは薄皮一枚で隔たった背徳への好奇心の内側に留まって満足しているか、公太朗をじらしている。
あんた変態じゃねえ。じいさん殺すいうたら勃起しよる。
しとらんわ。
幾子の笑い声が高まる。
公太朗は激昂してふり返り幾子の肩を突く。なぜならそれは事実であるからだ。幾子は脚を大きくあげて畳に肘をつき、公太朗の視線は鋭くその白い下着の檸檬色のよごれを見つける。少年の心が姉の知能に対する優越感を恢復する。公太朗は中学の教師に畏怖されるほどの秀才であるのに、姉の幾子は検討しうる範囲のいかなる高校にも入れぬままずるずると二年遅れている。界隈の痩せこけた不良どもにあまりに頻繁に犯されてとうとう子を孕み、堕胎してからは、療養を名目にこの造船町に預けられている。幾子と公太朗の祖父が長らくひとりで暮らしてきた姉弟の母の生家である。
ほいで、あんたはどうするんね。
どうするんいうてなにをや。
じいさん殺すの、手伝うてくれるんね、くれんのね。
祖父に対するこれといった情も公太朗にはなければ、姉のような強い嫌悪もない。口臭がきつく、脚がわるく、癇癪なわりに語彙が少なくていつも怒鳴りきれずにいる小男が、乏しい年金をしゃぶりながら、波打ちぎわを上下する芥のように湿った土地にしがみついている。将棋を指し、顔見知りの挨拶に間の抜けたこたえを返し、居酒屋の同じ席できっと蒲鉾かなにかを肴に二級酒を舐め、カレンダーに目印をつけた日がくると競艇場に出かけて小銭を賭ける。そうした営みがとつぜん途切れたところで、どこのだれも、たぶん彼自身もたいして困りはしまいし、あと十年二十年と続いたとしても幾子以外のだれが強く気にとめるだろうか。
ほいじゃが、殺してどうなるいうんかいの。
楽になる。うちが楽になる。
幾子は顎をあげ白っぽい舌を見せて喘ぐ。咽の動きに連動してふたつの乳房がむずかるように蠢く。
・・・・・・・・・・・・・・
固くひき締めた腕のなかに発した兎の死が、けっきょく沈黙以外のなにも喚起せず消散したことに公太朗は落胆している。おととし初めて射精を得た瞬間のめくるめく恐怖と快美の感覚をあざやかに再現してくれるのは、能動的な死への接近であるという仮説が否定されてしまったかたちだ。幼いころ昆虫殺しで得られていた悪意が背筋を逆流する感覚こそ、あれにもっとも近いと彼は思うのだが。今の彼にはもはや兎程度の死では矮小すぎるのだろうか。
夢想の炸裂のなかで少年は姉の肌を瀆聖する。鮮やかな色彩のなかにいられるのは放出寸前の一瞬だけで、すぐまた白茶けた日常に押し返されてしまう。掌に吐き出した半透明の生成物をちり紙ですくい取るように拭う。便所の小窓から今は空っぽの隣家の兎小屋が見える。隣家の主人はどうした思い込みか兎を殺したのは犬だと主張して、野良犬と見れば追いまわしているという。
夕方、銭湯の湯槽のなかで公太朗はサイレンの噂を知る。(続く)
[おことわり]
お気付きだとは思いますが、タイトルがタイトル通りに正しく表記できません。やむなく 「綺」 としました。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆津原 泰水
1964年広島県広島市生まれ。
青山学院大学国際政治経済学部卒業。
作品 「蘆屋家の崩壊」「ルピナス探偵団の当惑」「赤い竪琴」「ブラバン」「11 eleven」「ルピナス探偵団の憂愁」など
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