『私のなかの彼女』(角田光代)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『私のなかの彼女』(角田光代), 作家別(か行), 書評(わ行), 角田光代

『私のなかの彼女』角田 光代 新潮文庫 2016年5月1日発行

「男と張り合おうとするな」醜女と呼ばれながら、物書きを志した祖母の言葉の意味は何だったのだろう。心に芽生えた書きたいという衝動を和歌が追い始めたとき、仙太郎の妻になり夫を支える穏やかな未来図は、いびつに形を変えた。母の呪詛、恋人の抑圧、仕事の壁。それでも切実に求めているのだ、大切な何かを。全てに抗いもがきながら、自分の道へ踏み出してゆく、新しい私の物語。(新潮文庫)

河合隼雄物語賞受賞作品。(2014年)

この小説は、栃木県から上京した中流家庭の一人娘・本田和歌という女性を主人公に、彼女の大学入学直後から作家として身を立てるまでの変遷を描いた、いわば自伝的物語です。

物語は大きく二つに分かれています。一つは、和歌と和歌の祖母・タエに纏わる話。もう一つは、和歌と恋人・仙太郎との話です。ここでは和歌がある日、直感のようにして「小説を書きたい」と思い立つ、契機を主に紹介しようと思います。

学業こそ優秀だったものの、18歳の和歌は何も知りません。「実は自分は何も知らないし、知らされてもいない」という、そもそもの自覚がありません。栃木の田舎で生まれ育った和歌にしてみれば、周りの皆がそうで、それで何ほどの問題もなかったのです。

大学のひとつ年上の同級生、内村仙太郎と知り合い、二人は交際を始めることになります。イラストレーターとして在学中から注目される存在の仙太郎は、世事に疎い和歌には自慢の恋人で、何かと新しい世界を指し示してくれるこの上なく大事なパートナーです。

和歌は、何より仙太郎との結婚を望んでいます。ところが、仙太郎は和歌の思いをその都度やんわりとかわしては、彼女に働くことを勧めます。仙太郎の伝手を頼って和歌は働くには働くのですが、思い通りに行かない分満たされないでいます。

正月。帰省した和歌は、実家の古い土蔵で母方の祖母・タエの写真を発見します。それと同時に、山口多栄という著者の『うららかな実』という本、おそらくは祖母が書いたと思われる、粗末な紙に綴られた一篇の「小説」を発見します。

読むとずいぶん荒削りではあるのですが、生々しく艶めかしい小説です。母からは「醜女」だったと繰り返し聞かされ、その都度「口のまわりにひげが生えていた」と必ず母がつけ加えた、写真に写る醜いばかりの老女がかつてこんなものを書いていたとは・・・・

和歌は、祖母のことをもっと知りたいと強く思うようになります。そして、書いてみたい、と思います。何かしたいという漠然としたものではなく、はっきり、書いてみたいと思うのです。

祖母がいったい誰で、なぜ小説など書こうと思い立ち、どのような気分で書き、どんな男と結婚し、二人の間に何があり、どうして書くのをやめ、どのような気持ちで「男と張り合おうとするな」などと言ったのか・・・・

この先絶対に知りようがないそれらの事々について、なら作ればいいと。自分で作って、誰でもない、ともかく自分がそれを読んでみたいのだと。自身を納得させられる祖母のストーリーを読んでみたいという思いに、和歌はひとり興奮していたのです。
・・・・・・・・・
和歌がそんな思いに至るについて、実はまた別の理由があります。その時、和歌は勤め先の同僚・久里子と二人で三泊四日の香港旅行へ出かけ、一人で九龍城を訪ねる件があります。

妖しく聳える巨大な建物群にいて、彼女は路地にある幾多の店に驚き、またその先の路地にある、開け放った扉から垣間見えるいくつもの生活に何かを感じ取ります。目の前の非現実的な光景に触れ、祖母に対する自分の想像の偏狭さを嘆いたりもします。しかし、彼女はこうも思うのです。

もしかして、私たちの生、生というものが大げさだとするなら生活、そういうものは、私の想像がかろうじて手をのばせるほどの偏狭さで成り立っているのではないか。ここはたしかに、自分の想像を超えた場所である。こんなところがあるなんて思いもしなかった。今目にしている光景だって現実味がまるでない。それに、たとえば夜に落ち合う久里子に私はきっとこの光景を説明できない。なぜならこの場所が自分の言葉を超えているから。

そして、でも、と続きます。

でも、それならここに何がある。学校があり、煮物のにおいがあり、歯医者があり、テレビがあり、コンドームがあり、麻薬があり、水道があり、ベッドがある。私の知らないものなどひとつもないではないか。

すべては、よくよく見知ったもので成り立っている。けれどそれを無数に積み上げていけば、この、緻密で猥雑で巨大な、人が作り上げたとはとても思えない異様な城になる - 和歌はそうも思っているのです。

※ このあと和歌はみごと新人賞を受賞し、プロの作家として歩み出してゆきます。しかし、その道程は並大抵のものではありません。描いていた未来とはまるで違う景色が待ち受けています。

この本を読んでみてください係数  85/100


◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「空中庭園」「かなたの子」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「マザコン」「だれかのいとしいひと」「ドラママチ」「それもまたちいさな光」「対岸の彼女」他多数

関連記事

『猫を拾いに』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『猫を拾いに』川上 弘美 新潮文庫 2018年6月1日発行 誕生日の夜、プレーリードッグや地球外生

記事を読む

『私の頭が正常であったなら』(山白朝子)_書評という名の読書感想文

『私の頭が正常であったなら』山白 朝子 角川文庫 2021年1月25日初版 私の哀

記事を読む

『悲鳴』(櫛木理宇)_書評という名の読書感想文

『悲鳴』櫛木 理宇 新潮文庫 2025年9月1日 発行 声なき悲鳴が胸をうがつ 『死刑にいた

記事を読む

『なめらかで熱くて甘苦しくて』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『なめらかで熱くて甘苦しくて』川上 弘美 新潮文庫 2015年8月1日発行 少女の想像の中の奇

記事を読む

『私のクラスの生徒が、一晩で24人死にました。』(日向奈くらら)_書評という名の読書感想文

『私のクラスの生徒が、一晩で24人死にました。』日向奈 くらら 角川ホラー文庫 2017年11月25

記事を読む

『奴隷小説』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『奴隷小説』桐野 夏生 文芸春秋 2015年1月30日第一刷 過激です。 桐野夏生の新刊『

記事を読む

『キッドナッパーズ』(門井慶喜)_書評という名の読書感想文

『キッドナッパーズ』門井 慶喜 文春文庫 2019年1月10日第一刷 表題作 「キッ

記事を読む

『スイート・マイホーム』(神津凛子)_書評という名の読書感想文

『スイート・マイホーム』神津 凛子 講談社文庫 2021年6月15日第1刷 隙間風

記事を読む

『私の命はあなたの命より軽い』(近藤史恵)_書評という名の読書感想文

『私の命はあなたの命より軽い』近藤 史恵 講談社文庫 2017年6月15日第一刷 東京で初めての出

記事を読む

『曾根崎心中/新装版』(角田光代 原作 近松門左衛門)_書評という名の読書感想文

『曾根崎心中/新装版』角田 光代 原作 近松門左衛門 リトルモア 2025年12月24日 初版第1

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『百年の時効』 (伏尾美紀)_書評という名の読書感想文

『百年の時効』 伏尾 美紀 幻冬舎 2026年1月20日 第8刷発行

『十字架屋の日常』 (井上荒野)_書評という名の読書感想文

『十字架屋の日常』 井上 荒野 中公文庫 2026年2月25日 初版

『有罪、とAIは告げた』 (中山七里)_書評という名の読書感想文

『有罪、とAIは告げた』 中山 七里 小学館文庫 2026年5月20

『けんぐゎい』 (朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文

『けんぐゎい』 朝倉 かすみ 光文社 2026年4月30日 初版第1

『食べると死ぬ花』 (芦花公園)_書評という名の読書感想文

『食べると死ぬ花』 芦花 公園 新潮文庫 2026年6月1日 発行

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑