『おまえじゃなきゃだめなんだ』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『おまえじゃなきゃだめなんだ』角田 光代 文春文庫 2015年1月10日第一刷


おまえじゃなきゃだめなんだ (文春文庫)

新刊の文庫オリジナル、角田光代の恋愛短編集を読みました。
ティファニー、プラチナ・ギルド・インターナショナル、JT、星野リゾート等の企業から依頼されたもので、高級ブランドのジュエリーや婚約指輪、高級旅館等を題材に、若い男女の恋の事情が綴られています。掌サイズの物語を含め23編が収められています。

高価なジュエリーに関して角田光代曰く、「素直に、貰って嬉しい人がいる一方で、そうじゃない人達も必ず存在する。私はやっぱり、そっち側を書きたいんです」 と、インタビューでコメントしています。単なるコマーシャル・メッセージではないのがわかります。

中で、私は表題の 「おまえじゃなきゃだめなんだ」 が圧倒的に好きです。丁度収まりの良い短編で、高価な宝石や高級な旅館は登場しませんが、人生の感慨に深く浸りたい方、この作品だけでも読んでみてください。

おまえじゃなきゃだめなんだ
コーヒー豆を輸入販売する会社に勤めている芦川さんは、あまり個性のない、中年の夫婦が乗っているようなグレイの車で、待ち合わせの駅へやって来ました。車中での芦川さんとの会話は特別盛り上がったわけでもなかったけれど、不思議と楽しいものでした。

芦川さんが昼食場所に決めたのは、何だかくたびれたファミリーレストラン風の店で、奇妙な看板の下には 「山田うどん」 と書かれています。店内はまるでお洒落ではなく、色気も情緒もありません。どこか学食に似ている素っ気ないものでした。

私は、男の人にこんな店に連れてこられたことが一度もありません。食事と言えばフランス料理かイタリア料理、懐石料理だったし、ランチでさえコース料理が普通でした。

「芦川さんは、私に、ここでランチを食べろって言っている?」
うどんと天丼。うどんとかつ丼。うどんとカレー。セットはすべて炭水化物と炭水化物、値段は一杯200円から300円台。席に着いている客の多くは作業着姿の若い男でした。

子供の頃よく通ったという芦川さんが注文したのは、かつ丼とうどんのセットでした。私はどうでもよくなって、値段の一番高いうどんを頼みました。こんな店で食事をしようと言った芦川さんは、私を恋愛相手と見なしてなどいない。見くびられている。安く見積もられていると感じました。

天を仰ぐように顔を上げた芦川さんは 「やっぱり山田うどんじゃなきゃだめなんだよなぁ」 と呟き、照れたように笑って、ものすごい勢いでうどんをすすりはじめます。うどんは、仰天するほどおいしくはありません。まずいわけでもなく、ふつうでした。ふつうにおいしかったのです。

バブル最盛期と青春が重なって己の貞操観念が欠落していたのを自覚したのは、30代に突入して数年たった頃でした。恋愛のかかわる関係において、真人間になろうと決意してつき合ったはじめての相手が、宗岡辰平でした。私は、宗岡からの求婚を待っていました。

宗岡から呼び出されて 「結婚しようと思うんだ」 と切り出されたとき、宗岡の結婚相手がまさか私以外の女性だとは思いもしませんでした。勘違いをした私に、涙と鼻水を垂らしながら詫びる宗岡を、私は怒る気持ちになれません。過去の自分の不誠実が今こんなかたちの誠実になって返ってきた、と思うばかりでした。

私は、38歳になりました。宗岡にふられたことに深く傷つきはしたものの、浮ついていた昔の自分と相殺したつもりで納得し、真人間として邁進して行こうと、士気を高めています。今は転職して、飲料水の営業でバンを運転し関東近郊をまわっています。

街道沿の 「山田うどん」 は、タイムスリップしたかと思う程、あの時と同じ空気が店内に漂っています。私は、うどんとかつ丼のミニセット、少し悩んで餃子を追加で注文しました。

一度しか食べたことがないうどんを、なつかしいと思う私は、芦川さんと来たときに感じたほわほわとした気持ちの正体にやっと気付きます。あれは、母親の作ったうどんの思い出でした。風邪を引いたとき母親が作ってくれて、あたり前のように食べていたうどんと子供の頃の気配を感じ取っていたのでした。

涙を拭うこともせず、私はひたすらかつ丼を食べ、うどんをすすります。「山田じゃなきゃだめなんだ」 と思わず口走った芦川さんの声がよみがえります。私は、本当はそう言われる女になりたかった。ずっとずっと。「おまえじゃなきゃだめなんだ」 と言ってもらえる女に。鼻水のせいで、もううどんの味がわからなくなっています。

この本を読んでみてください係数  85/100


おまえじゃなきゃだめなんだ (文春文庫)

◆角田 光代

1967年神奈川県横浜市生まれ。

早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
大学在学中に初めての小説を書く。卒業して1年後に角田光代として発表したテビュー作『幸福な遊戯』で第9回海燕新人文学賞を受賞する。以後、数々の文学賞を受賞している。

作品 「まどろむ夜のUFO」「キッドナップ・ツアー」「空中庭園」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「ツリーハウス」「かなたの子」「私のなかの彼女」ほか多数

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