『茗荷谷の猫』(木内昇)_書評という名の読書感想文

『茗荷谷の猫』木内 昇 文春文庫 2023年7月25 第7刷

もう少し手を伸ばせばあの夢にとどいたのか。漂砂のうたうで直木賞受賞の気鋭が放つ連作幻想譚。

茗荷谷の一軒家で絵を描きあぐねる文枝。庭の物置には猫の親子が棲みついた。摩訶不思議な表題作をはじめ、染井吉野を造った植木職人の悲話 「染井の桜」、世にも稀なる効能を持つ黒焼を生み出さんとする若者の呻吟 「黒焼道話」 など、幕末から昭和にかけ、各々の生を燃焼させた名もなき人々の痕跡を掬う名篇9作。解説・春日武彦 (文春文庫)

『櫛挽道守』 を読んで、私は泣きました。静謐で、粛々と綴られる著者の文章に魅せられました。この連作集も同様で、人の一生に関わって、(どんな場面であったとしても) 大袈裟なところがまるでありません。煩悶しつつ、それでも受け入れて、時に泣き笑い、人生は続きます。時を経て、時代を跨ぎ、今もなお - 。

高度経済成長で賑わう東京で、しがない電気工として天井裏で配線を引き回している俊男は、スペインタイルを貼られた瀟洒な文化住宅の前を夕暮れに通り掛かり、「昼間は庇の陰となりひんやり外からの目を遮断している屋内は、電灯が点ると途端に温かく親しげな表情で、外の者を誘い込む。俊男は自分の仕事の意味を知って、ほんの少し安心する」。

このような、巷の人たちのささやかだけれどもしっかりとした日々の手応えや実感を大切にして書き上げることによって、本書は我々の心を静かに揺さぶってくる。忘れがたい一冊として胸の内に残ることになる。日常を 「かけがえのないもの」 として尊重することの意味を、我々はあらためて考えさせられる。

作品集の最後に位置するこの物語の中で、電気工の俊男はスペインタイルを貼られた家に憧れつつ胸の中でそっと心を巡らせる。「あの家には、自分の選びそびれた人生がこっそり眠っているように俊男は感じた。取り戻そうにも、呼び鈴を押すことすらもうできない」。

この一節はわたしの胸を締め付ける。無力感や未練、運命に味方してもらえなかった自分の人生への複雑な思い、自己憐憫を拒みつつも無意識のうちに俯いてくる己の姿勢 - そのようなものを受け入れざるを得ないことへの寂寥感と虚脱感とが、逆にごく当たり前の日常へ向ける視線の解像度を上げ、すると日々の光景が奇妙な肯定感をゆったりともたらしてくる。それこそが人の心に備わった神秘ではないのか。(解説より)

※(私にとっての一番) 表題作 「茗荷谷の猫」 は、一軒家で暮らす画家の文枝をめぐる物語。勤め人の夫がおり、文枝の絵を買いに来る人物がおり、納屋の下には猫の親子が棲みついています。

詳細はほとんど明かされません。薄い靄がかかったように、物語は全部がひどく頼りなげな空気の中で進行します。劇的ともいえる展開があるにはありますが、読むと、それもさして大したことではないように思えてきます。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆木内 昇
1967年東京都生まれ。
中央大学文学部哲学科心理学専攻卒業。

作品 「新選組 幕末の青嵐」「笑い三年、泣き三月」「光炎の人」「漂砂のうたう」「櫛挽道守」他多数

関連記事

『緑の毒』桐野夏生_書評という名の読書感想文

『緑の毒』 桐野 夏生 角川文庫 2014年9月25日初版 先日書店に行ったとき、文庫の新刊コー

記事を読む

『すみなれたからだで』(窪美澄)_書評という名の読書感想文

『すみなれたからだで』窪 美澄 河出文庫 2020年7月20日初版 無様に。だけど

記事を読む

『魂萌え! 』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『魂萌え! 』桐野 夏生 毎日新聞社 2005年4月25日発行 夫婦ふたりで平穏な生活を送っていた

記事を読む

『窓の魚』(西加奈子)_書評という名の読書感想文

『窓の魚』西 加奈子 新潮文庫 2011年1月1日発行 温泉宿で一夜をすごす、2組の恋人たち。

記事を読む

『ロック母』:「ゆうべの神様」と「ロック母」(角田光代)_書評という名の読書感想文

『ロック母』:「ゆうべの神様」と「ロック母」角田 光代 講談社文庫 2010年6月15日第一刷

記事を読む

『みんな邪魔』(真梨幸子)_書評という名の読書感想文

『みんな邪魔』真梨 幸子 幻冬舎文庫 2011年12月10日初版 少女漫画『青い瞳のジャンヌ』

記事を読む

『まともな家の子供はいない』津村記久子_書評という名の読書感想文

『まともな家の子供はいない』 津村 記久子 筑摩書房 2011年8月10日初版 小柄で、身に着け

記事を読む

『ぼくの死体をよろしくたのむ』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『ぼくの死体をよろしくたのむ』川上 弘美 新潮文庫 2022年9月1日発行 うしろ

記事を読む

『雨のなまえ』(窪美澄)_書評という名の読書感想文

『雨のなまえ』窪 美澄 光文社文庫 2022年8月20日2刷発行 妻の妊娠中、逃げ

記事を読む

『死刑にいたる病』(櫛木理宇)_書評という名の読書感想文

『死刑にいたる病』櫛木 理宇 早川書房 2017年10月25日発行 主人公の筧井雅也は、元優等生

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『オーブランの少女』(深緑野分)_書評という名の読書感想文

『オーブランの少女』深緑 野分 創元推理文庫 2019年6月21日

『揺籠のアディポクル』(市川憂人)_書評という名の読書感想文

『揺籠のアディポクル』市川 憂人 講談社文庫 2024年3月15日

『海神 (わだつみ)』(染井為人)_書評という名の読書感想文

『海神 (わだつみ)』染井 為人 光文社文庫 2024年2月20日

『百年と一日』(柴崎友香)_書評という名の読書感想文

『百年と一日』柴崎 友香 ちくま文庫 2024年3月10日 第1刷発

『燕は戻ってこない』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『燕は戻ってこない』桐野 夏生 集英社文庫 2024年3月25日 第

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑