『キッドナップ・ツアー』(角田光代)_書評という名の読書感想文
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『キッドナップ・ツアー』(角田光代), 作家別(か行), 書評(か行), 角田光代
『キッドナップ・ツアー』角田 光代 新潮文庫 2003年7月1日発行
五年生の夏休みの第一日目、私はユウカイ(=キッドナップ)された。犯人は二か月前から家にいなくなっていたおとうさん。だらしなくて、情けなくて、お金もない。そんなおとうさんに連れ出されて、私の夏休みは一体どうなっちゃうの? 海水浴に肝試し、キャンプに自転車泥棒。ちょっとクールな女の子ハルと、ろくでもない父親の、ひと夏のユウカイ旅行。私たちのための夏休み小説。(新潮文庫より)
そのユウカイ犯は、私(背の低い小学五年生のハルという名の少女)に「背、伸びたな、ハル」と声をかけます。ユウカイ犯は私の名前を知っています。
「そうかな」と応じる私も、実はこの男を知っているのです。なぜなら、おかしいほど大きなサングラスをかけたこの男は、私のおとうさんなのですから。
運転席側の窓が開き、「おじょうちゃん、お乗りになりませんか」と言うから、私は男をじっと見つめたまま車までのそのそと歩き、助手席のドアを開けます。車の中はきんと涼しくて、買いにいくつもりだったアイスクリームなんてどうでもよくなるくらいで、
「私ね、車乗るの大好きなんだ。おかあさんはほら、免許持ってないでしょ。でもこのまえさゆりちゃんのおとうさんに車乗せてもらってさあ、・・・・」とべらべらしゃべり、本当はたいしてお腹が空いているわけでもないのに「ねえ、私、ファミリーレストランいきたい」などと言い出しています。
いつもそうなのです。私は緊張すると言葉がどんどんのどにはいあがってきて、とまらなくなるのです。緊張しているのは、おとうさんに会うのがすごくひさしぶりなせいです。
・・・・・・・・・・
約二か月ぶりに出会った父と娘は、さすがに親子であるだけに特にこれといったわだかまりもなくスムーズな会話をしているふうに思えるのですが、(先にも書きましたように)久方ぶりに目の前に現れた父親に対して、ハルは明らかに平静を装っています。
平静を装わんが為に、わざと饒舌になっているのが分かります。一方のおとうさんはと言うと、(元々この人はふざけ性で、真剣になるべきときでもばかみたいなことばかりを言い、おかあさんを泣かせたり、口をきいてもらえなかったことがあります)
こちらはこちらで一生懸命間を持たそうと、あるいは何とか父親としての威厳を保つべくして、言わずもがなのことを言います。ハルはシートにもたれちらりとおとうさんの横顔を見て、思います。
- 私は背なんか伸びていない。たった二か月かそこいらで背が伸びるのなら、私はいつまでも列の先頭で腰に手をあてたりしていない。もっとうしろのほうでみんなと同じ、前ならえの姿勢をとっている。でも・・・・
ハルは心の中でそう呟く傍らで、おとうさんがそう言ったのは、きっとほかに何を言ったらいいか思いつかなかったからなんだろうと考えます。自分がそんなにお腹は減っていないのにファミリーレストランへいきたいなんて言ったのといっしょなんだと思います。
さて、ここまでは冒頭で交わされるハルと父親のやり取りのごく一部を紹介したわけですが、家族と離れ今は独りで暮らす父親と、利発でちょっとクールな少女との微妙な距離感、たまにしか会えない中での親と子の絶妙な間合いがみごとなまでに描き出されています。
父親がどんな仕事をしているのか、していないのか。何が元で妻と娘を残して家を出たのか。実の娘を誘拐する(にしてはあまりに杜撰で二人きりの旅行を存分に楽しんでいるようにしか思えないのですが)という暴挙に出てまで妻とするべき交渉とは何事だったのか。
それらは何ひとつ明かされないままに、本当に言うべきは内に秘めて語られることなく、しかし、それ以上に何かある親と子の、ひいては人と人との関係にある確かなものの余韻を残して、ひと夏の可笑しくもせつない冒険譚は幕を閉じます。
※ 余談ですが、中学受験の過去問にこの小説があるらしい。どんな設問なんだろうと、ちょっと気になります。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
作品 「空中庭園」「かなたの子」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「マザコン」「だれかのいとしいひと」「ドラママチ」「それもまたちいさな光」「対岸の彼女」「幾千の夜、昨日の月」ほか多数
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