『キッドナップ・ツアー』(角田光代)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『キッドナップ・ツアー』(角田光代), 作家別(か行), 書評(か行), 角田光代

『キッドナップ・ツアー』角田 光代 新潮文庫 2003年7月1日発行

五年生の夏休みの第一日目、私はユウカイ(=キッドナップ)された。犯人は二か月前から家にいなくなっていたおとうさん。だらしなくて、情けなくて、お金もない。そんなおとうさんに連れ出されて、私の夏休みは一体どうなっちゃうの? 海水浴に肝試し、キャンプに自転車泥棒。ちょっとクールな女の子ハルと、ろくでもない父親の、ひと夏のユウカイ旅行。私たちのための夏休み小説。(新潮文庫より)

そのユウカイ犯は、私(背の低い小学五年生のハルという名の少女)に「背、伸びたな、ハル」と声をかけます。ユウカイ犯は私の名前を知っています。

「そうかな」と応じる私も、実はこの男を知っているのです。なぜなら、おかしいほど大きなサングラスをかけたこの男は、私のおとうさんなのですから。

運転席側の窓が開き、「おじょうちゃん、お乗りになりませんか」と言うから、私は男をじっと見つめたまま車までのそのそと歩き、助手席のドアを開けます。車の中はきんと涼しくて、買いにいくつもりだったアイスクリームなんてどうでもよくなるくらいで、

「私ね、車乗るの大好きなんだ。おかあさんはほら、免許持ってないでしょ。でもこのまえさゆりちゃんのおとうさんに車乗せてもらってさあ、・・・・」とべらべらしゃべり、本当はたいしてお腹が空いているわけでもないのに「ねえ、私、ファミリーレストランいきたい」などと言い出しています。

いつもそうなのです。私は緊張すると言葉がどんどんのどにはいあがってきて、とまらなくなるのです。緊張しているのは、おとうさんに会うのがすごくひさしぶりなせいです。
・・・・・・・・・・
約二か月ぶりに出会った父と娘は、さすがに親子であるだけに特にこれといったわだかまりもなくスムーズな会話をしているふうに思えるのですが、(先にも書きましたように)久方ぶりに目の前に現れた父親に対して、ハルは明らかに平静を装っています。

平静を装わんが為に、わざと饒舌になっているのが分かります。一方のおとうさんはと言うと、(元々この人はふざけ性で、真剣になるべきときでもばかみたいなことばかりを言い、おかあさんを泣かせたり、口をきいてもらえなかったことがあります)

こちらはこちらで一生懸命間を持たそうと、あるいは何とか父親としての威厳を保つべくして、言わずもがなのことを言います。ハルはシートにもたれちらりとおとうさんの横顔を見て、思います。

- 私は背なんか伸びていない。たった二か月かそこいらで背が伸びるのなら、私はいつまでも列の先頭で腰に手をあてたりしていない。もっとうしろのほうでみんなと同じ、前ならえの姿勢をとっている。でも・・・・

ハルは心の中でそう呟く傍らで、おとうさんがそう言ったのは、きっとほかに何を言ったらいいか思いつかなかったからなんだろうと考えます。自分がそんなにお腹は減っていないのにファミリーレストランへいきたいなんて言ったのといっしょなんだと思います。

さて、ここまでは冒頭で交わされるハルと父親のやり取りのごく一部を紹介したわけですが、家族と離れ今は独りで暮らす父親と、利発でちょっとクールな少女との微妙な距離感、たまにしか会えない中での親と子の絶妙な間合いがみごとなまでに描き出されています。

父親がどんな仕事をしているのか、していないのか。何が元で妻と娘を残して家を出たのか。実の娘を誘拐する(にしてはあまりに杜撰で二人きりの旅行を存分に楽しんでいるようにしか思えないのですが)という暴挙に出てまで妻とするべき交渉とは何事だったのか。

それらは何ひとつ明かされないままに、本当に言うべきは内に秘めて語られることなく、しかし、それ以上に何かある親と子の、ひいては人と人との関係にある確かなものの余韻を残して、ひと夏の可笑しくもせつない冒険譚は幕を閉じます。

※ 余談ですが、中学受験の過去問にこの小説があるらしい。どんな設問なんだろうと、ちょっと気になります。

この本を読んでみてください係数  85/100


◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「空中庭園」「かなたの子」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「マザコン」「だれかのいとしいひと」「ドラママチ」「それもまたちいさな光」「対岸の彼女」「幾千の夜、昨日の月」ほか多数

関連記事

『5時過ぎランチ』(羽田圭介)_書評という名の読書感想文

『5時過ぎランチ』羽田 圭介 実業之日本社文庫 2021年10月15日初版第1刷

記事を読む

『螻蛄(けら)』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『螻蛄(けら)』黒川 博行 新潮社 2009年7月25日発行 信者500万人を擁する伝法宗慧教

記事を読む

『琥珀のまたたき』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『琥珀のまたたき』小川 洋子 講談社文庫 2018年12月14日第一刷 もう二度と

記事を読む

『逆転美人』(藤崎翔)_書評という名の読書感想文

『逆転美人』藤崎 翔 双葉文庫 2024年2月13日第15刷 発行 美しすぎるのは不幸なのか

記事を読む

『煙霞』(黒川博行)_書評という名の読書感想文

『煙霞』黒川 博行 文芸春秋 2009年1月30日第一刷 WOWOWでドラマになっているらし

記事を読む

『負け逃げ』(こざわたまこ)_書評という名の読書感想文

『負け逃げ』こざわ たまこ 新潮文庫 2018年4月1日発行 第11回 『女による女のためのR-

記事を読む

『風の歌を聴け』(村上春樹)_書評という名の読書感想文(書評その2)

『風の歌を聴け』(書評その2)村上 春樹 講談社 1979年7月25日第一刷 書評その1はコチラ

記事を読む

『小島』(小山田浩子)_書評という名の読書感想文

『小島』小山田 浩子 新潮文庫 2023年11月1日発行 私が観ると、絶対に負ける

記事を読む

『幸福な食卓』(瀬尾まいこ)_書評という名の読書感想文

『幸福な食卓』瀬尾 まいこ 講談社 2004年11月19日第一刷 買ってはみたものの、手に取

記事を読む

『風の歌を聴け』(村上春樹)_書評という名の読書感想文(書評その1)

『風の歌を聴け』(書評その1)村上 春樹 講談社 1979年7月25日第一刷 もう何度読み返した

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『サリン/それぞれの証』(木村晋介)_書評という名の読書感想文

『サリン/それぞれの証』木村 晋介 角川文庫 2025年2月25日

『スナーク狩り』(宮部みゆき)_書評という名の読書感想文

『スナーク狩り』宮部 みゆき 光文社文庫プレミアム 2025年3月3

『小説 木の上の軍隊 』(平一紘)_書評という名の読書感想文

『小説 木の上の軍隊 』著 平 一紘 (脚本・監督) 原作 「木の上

『能面検事の死闘』(中山七里)_書評という名の読書感想文 

『能面検事の死闘』中山 七里 光文社文庫 2025年6月20日 初版

『編めば編むほどわたしはわたしになっていった』(三國万里子)_書評という名の読書感想文

『編めば編むほどわたしはわたしになっていった』三國 万里子 新潮文庫

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑