『ほろびぬ姫』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/12
『ほろびぬ姫』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(は行)
『ほろびぬ姫』井上 荒野 新潮文庫 2016年6月1日発行
両親を事故で失くしたみさきは19歳で美術教師の夫と結婚した。それから4年。あなたはあなたが連れてきた - 嵐の晩、彼女の前にふたりの「あなた」があらわれる。夫が、長い間音信不通だった双子の弟を探してきたのだ。混乱するみさきに、僕はもうすぐ死ぬんだ、と告げる夫。衰弱していく兄になりかわるように、その存在感を徐々に増していく弟。幻惑的な文体で綴る愛のサスペンス。(新潮文庫より)
-「グヤグヤナンジヲイカニセン」
生島新時(しんじ)と盛時(せいじ)は、見た目がそっくりの、但しまるで性格は違う一卵性双生児。長い間二人は音信不通の状態で、兄の新時が苦労の末に弟の盛時を探し出してきたのには、ある特別な理由があります。
最初、なぜ今更に夫が盛時を連れ戻してきては引き合わすようなことをしたのか、新時の妻であるみさきにはおよそ夫の胸の内が分かりません。物静かな新時とは違い、盛時の言動はかなり乱暴で、どちらかというとみさきは盛時のことを疎ましく感じています。
ある日、新時は冷たく悲しい目をして「僕は死ぬんだ」とみさきに告げます。次の日に、三人は病院に行き、そこで医師から、みさきは初めて夫が不治の病に罹り、余命は1年もないと告知されます。混乱したみさきに、盛時が呪文のような言葉を吐きます。
それが「グヤグヤナンジヲイカニセン」- その上、この言葉は「兄貴の呪い(まじない)だよ」と言い、遠い昔の中国の話、項羽が劉邦に攻められ、四面楚歌に陥ったとき、妻の虞美人に「虞や虞やなんじをいかにせん」と詠った漢詩だと説明したのです。
※ 項羽は紀元前三世紀の武将で、秦に造反し、滅ぼし、西楚の覇王と称したが、劉邦と戦い、最後は敗死する。その最後の戦いで劉邦の軍に負けると悟った彼は、妻の虞美人に向かって、「力抜山兮気蓋世(力は山を抜き 気は世を蓋ふ)、時不利兮騅不逝(時に利あらずして 騅逝かず)」と繰り返し歌い、涙を流し、虞美人を引き寄せ、
騅不逝兮可奈何(騅逝かざるを奈何すべき) 騅:すい
虞兮虞兮奈若何(虞や虞や若を奈何せん) 若:なんじ 奈何:いかん又はいかに
と歌い収める。(文庫にある松山巖氏の解説より抜粋)
騅とは項羽の愛馬の名前で、つまりは項羽は自分の非運などどうでもいい、愛馬が死なないのはどうしよう、それ以上に、お前を残すことだけが心残りだ、お前をどうしよう、と虞美人に歌って語りかけたというのです。
このあと虞美人が項羽の気持ちを慮って何事かを覚悟し、さらに項羽は彼女に対して何を為したのか - それについては本編といささか異なった結末であり省略することにしますが、いずれにせよ、この著名な逸話が『ほろびぬ姫』という小説の核心を成しています。
みさきが愛しているのは、夫・新時の一人きりです。そう信じて疑わない彼女の心には一点の曇りもありません。しかし、それでも彼女は自分に内緒で企てられた夫の計画に気付く内に、傷つき、夫の本意がどこにあるのか、それは本当に愛しているということになるのか、と段々と疑心暗鬼になってゆきます。
みさきは夫のことを「あなた」と呼んでいます。夫の双子の弟・盛時が出現してからあと、彼を指して言うときも、みさきは盛時のことを「あなた」と呼びます。
「あなたはあなたが連れてきた」- とは、死に逝く夫が、一人後に残る(猛獣の檻の中に放たれた子鹿のような)妻を思って、自分の身代わりにと差し出した実の弟、顔かたちの区別がつかないくらいよく似た風貌の、もう一人別の「自分」であったわけです。
新時はしかるべき手続きをすべて済ませた上で書類に残し、自分が死んだ後の妻の生き方をも指図するような段取りをしています。しかしながら唯一の落ち度であり、極めて横暴に思えるのは、当事者である妻のみさきに一切相談せぬ内に決めてしまったということ。
みさきにしてみれば、到底承諾できるような内容ではありません。彼女は真意を疑い、激しく混乱します。たとえそれがただ一人自分が愛した人の心からの願いであったとしても、この先生きて行くのは他でもないみさき自身で、彼女は突然に「愛はそれほど重要なものなのだろうか」- などと思ったりもしています。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。
作品 「わたしのヌレエフ」「潤一」「夜をぶっとばせ」「そこへ行くな」「もう切るわ」「しかたのない水」「切羽へ」「夜を着る」「雉猫心中」「結婚」他多数
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