『僕のなかの壊れていない部分』(白石一文)_僕には母と呼べる人がいたのだろうか。
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『僕のなかの壊れていない部分』(白石一文), 作家別(さ行), 書評(は行), 白石一文
『僕のなかの壊れていない部分』白石 一文 文春文庫 2019年11月10日第1刷
「自分の人生にとって本質的なことからは決して逃れられない」
美しい恋人・枝里子をサプライズで京都に誘った。それは、昔の男が住む京都で枝里子の反応を見ようという悪意だった - 。東大卒出版社勤務、驚異的な記憶力を持つ 「僕」 は、同時に3人の女性と関係を持ちながら、誰とも深いつながりを結ぼうとしない。その 「理屈っぽく嫌味な」 言動の奥にあるのは、絶望なのか渇望なのか。彼の特異な過去を知った枝里子は - 。切実な言葉たちが読者の胸を貫いてロングセラーとなった傑作が文春文庫で登場。解説・窪美澄 (文藝春秋BOOKSより)
初めて読んだのは、(今から思うと) ずいぶん若い頃でした。東大卒の主人公、「僕」 が語るのは、(前に “屁” が付くような) それはもう理屈、理屈のオンパレードです。嫌味なこともさることながら、その博識さは圧巻で、知識も教養も比ぶべくもない私なんかにはとても太刀打ちできない代物なんじゃないかと。
なら、この歳になってまた読んでみようと思ったのは、この本の何が、私をそうさせたのか? それは二度目を読み終えた今になっても、正直よくわかりません。ただ、今回私は、最初読んだ時には見向きもしなかったある文章に、強く心を奪われたのでした。
おそらく、歳を取ったということでしょう。文中の 「自分の人生にとって本質的なことからは決して逃れられない」 という言葉は、強烈でした。主人公や解説の窪美澄氏ほどではないにせよ、そう思うに至ることが私にもあったからです。
それを自分の中でどう考えるのか。どう始末して生きて行くのか。60歳を超えて改めてこの本を読み、私は本文にあるこんな一節が、今更ながらに妙に身に沁みたのでした。
・・・・・・・ その本は、或る有徳の女性仏教者が晩年に著した随想集で、釈尊の教えをわかりやすく弁じたものだったが、幾度か読み返すに値する立派な文章だった。たとえば 「生きるということ」 と題された一文では、釈尊の有名な 「四門遊観」 の説話を紹介した上で、彼女は次のように記していた。
- 若い日の私は、この伝説を実によそよそしい作りごととして聞いた。時には、大事なお釈迦さまをこんなひ弱な世間知らずに仕立ててよいものだろうかとさえ思って反発した。しかし七十年近くを生きて来てみて、まさに老いが至り、その老いは必然として病を含み、その向こうに死が見えるようになった今、ここに語られている言葉の一つ一つの真実にほとほと驚嘆し、そうだ、そうだ、全くその通りだ、生きるということは、そういうことだったのだ、人間存在から、若さや、美しさや、愛や、情念や、富や、地位や、世間的能力など、うつろい行くものすべてを、〈ささら〉 でも使って根こそぎかき出してみれば、あとに残る骨組は、万人共通の老・病・死があるばかりだったのだ。自分をはじめ人は誰でも、老いに直面し、病に直面し、死に直面してみてはじめてそのことに気がつく、いやもしかしたら、気づくことさえなく死ぬのかも知れない。
それに対して釈尊は、漆黒の髪を持ち、人生の花開いた美しい青春の日に、生存のまごうかたなき骨組を、老・病・死の 「苦」 とうけとめた。しかもそれを、生存するものすべて (一切衆生) の苦ととらえ、その苦を超える道を求めて出家された。何という宇宙大の感性、何という宇宙大の優しさ - 更に私が喜悦するのは、若き日の釈尊は老・病、死が万人にとってまぬがれがたい真実であるにもかかわらず、人がそれをいとわしく思う底に、
若さには 老いに対する
健康者には 病者に対する
生きているものには 死者に対する
無意識の優越感、傲慢の思いがあるということに思い至ったと伝えられることである。ああ七十年を生きてかかえこんだ私のこの腐ったはらわたをつかみ出して見せてくれるこんな言葉を、一体誰が私の耳もとで語ってくれるだろうか。これほどわかり易く、これほど理路整然と - 。
そして後段で彼女は、現在の自らの心境を以下のように書いているのだった。
- 老・病・死をかかえこんだ髑髏にいのちの衣をきせたのが 「生」 というものであるならば、ひとときまとうその衣は、出来得れば美しくたおやかでありたい。
日々に生きゆく姿は、日々に死にゆく姿だと思えば、ものみな有難い。
活き活きと生きゆくことが、活き活きと死にゆくことだと納得すれば、心やすらぐ。(本文より)
この本を読んでみてください係数 85/100
◆白石 一文
1958年福岡県福岡市生まれ。
早稲田大学政治経済学部卒業。父白石一郎は直木賞作家。双子の弟白石文郎も小説家。
作品 「一瞬の光」「不自由な心」「すぐそばの彼方」「心に龍をちりばめて」「ほかならぬ人へ」「神秘」「火口のふたり」他多数
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